火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(73)ー米軍占領下沖縄におけるパインブーム再考

 

 

「米軍占領下沖縄におけるパインブーム再考」(2018年7月11日)

安里陽子

 

今回は米軍占領期の沖縄で「パインブーム」となったパインアップル加工産業において、技術や知識がどのように移動するのかということに焦点をあてて報告させていただきました。ディスカッションペーパーでは米軍占領期沖縄でパイン産業がどのように発展し「パインブーム」が生まれたのか流れを説明したうえで、最近関心を持っていること(しかも現在進行形で資料などを収集している段階)に触れたせいか、この話はどこに向かっていくのだろう?という質問もいただきました(うまく返答できず申し訳ございません…)。

近年、沖縄とくに八重山の台湾系の人びとがパイン産業の発展に大きく貢献したという語りは研究のみならずメディアでも取り上げられるようになっていて、台湾系の人びとの苦難の歴史なども語られるようになってきています。しかし今回の報告ではあえてそこには焦点を当てず(もちろん説明の上では外せないですが)、戦後の石垣島に「開拓移民」として移住しパイン産業に従事した沖縄の人びとや、USCAR(琉球列島米国民政府)によるハワイへの農業研修プログラムなどにも着目することにしました。つまり、労働者や技術・知識の移動とそれらが集まる当時の沖縄(とくに石垣島)のパイン産業を通して、米軍占領期沖縄がどのような場所であったのか、沖縄とハワイや台湾、東南アジアや「南洋」がどのようにつながっているのか考えてみたいと思っていました。

当日の議論ではさまざまな観点からのコメントや質問をいただきました。冷戦期や戦後の問題だけではなくてそれ以前からの台湾と沖縄の関係、帝国との関係を考えることができるのではというものや、近年の研究によって、これまで取り上げられてこなかった台湾系の人びとにスポットが当てられることでまた見えなくなるものがあるのではないか、そして1950年代後半からのパインブームと同時期に、伊佐浜など沖縄では米軍による土地接収があるが、それとの関係はどのようなものだろうか、といった問いが出されました。さらに、パインの生産者やあるいはパイン缶詰を生産する工場で働いていた人びとが有していた知識や経験はどういう意味を持ち得たのか、ハワイへの農業実習生は現在の日本における「技能実習生」のようであった可能性も考えられるのではないか、また、糖業との関係はどのようなものだったのかなどのコメントや問いがみなさまから出されました。また、1950年代以降、食べ物への欲あるいは食べ物の描かれる場面が大きくなるが、パインブームの受け手側となる消費者からパインはどういうモノとして見られていたのか知りたいといった問いもありました。まだまだ多くの幅広く深い問いやコメントがありましたが、これからじっくり、いや、やはり一人では考えられそうにもないので、またどこかでみなさまと議論できる機会があればと思っております。ゆたかな時間を作ってくださったみなさまに、心より感謝申し上げます。