火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(76)ー分析のようなつぶやき

 

 

分析のようなつぶやき

小路万紀子

2018/7/16

 

数年前の夏の日、パイナップルが描かれたTシャツを着て研究室にいたことがあった。隣の席だった安里さんは、「それどこで買ったの」と少し羨ましそうに言って、その時の言葉の響きには、それはわたしの・・・とでも言いかけるような声が混じっていた。可愛いと思って身に付けているだけのものが、ある人にとっては、主体にかかわる、それに向かおうとする情熱の対象で、可愛いの普遍性においては見えなくなる意味を持っている。その情熱に出会うことがなかったら、研究において説明されても、沖縄とパイナップルとの縁の深さをわたしがよく理解することはなかったかもしれない。福本さんがパイナップル柄のシャツを着ているのを見ても、単におしゃれと思っただけだったろう。

そんなパイン産業がなぜ忘れられてしまったのか。

発表では言及されなかったが、沖縄本島でも、パイン産業はさかんだったのだろうか。だとしたら、そもそも沖縄が群島であるのを大人になるまで認識せず、人の動きもこの目に映らないままだったわたしの視界が成り立っていたことと、忘却の問題は無関係ではないように思う。

この忘却を軸にして考えてみるに、「1938年には初のパイン缶詰を本土(大阪)に出荷」したとあるが、

その際、大阪ではどのような人や会社、組織、ネットワークが関与して、商品としてのパインはどんな場所に並べられたのだろうか。集団就職の場合には、本土の沖縄人たちがかかわっていたけれど、そうでなかったとしても、商品がどういう風に、どんな言語によって媒介され、売り出されていったのかを考える必要はあるように思った。

ペーパーでも後に商社の話が出てくるのだが、想像するに、ないとはいえない権力関係のなかで、生産点以外の部分がどのように作用していたのか、またその領域において人や組織、ネットワークが駆使する「知識」や「言語」と生産にかかわるそれらがいかなる関係にあったのか。その問題を一緒に考える方が、忘却の過程や理由はより具体的に明らかになるのではないかと思った。そう思ったのは、安里さんのペーパーを読んでまず思い浮かんだのが、「商品語」の話だったからだと思う。

「さまざまな場所での経験や知識が集まりパイン産業が発展した」とあるが、その内実を深める際、商品自身に注目する意義のようなものは、部分的接続において生じるすき間のような空間に、翻訳による介入をおこなうことでより際立つのではないか。本土と沖縄という軸を当たり前のままに残すよりは、また、資本の言語のように思われても、実際そうであったとしても、接続部分において起きていることを細かく、訳するように丁寧に視て、手にあらわしてみようとするなら、「スキマショー」(えりこさん)のような、場面や状況の再演が可能になるかもしれない。その結果が、わかりやすい「可能性」と言われるような展開の記述にならなくとも、労働力を所与のものとして考えない、そのうえ移動に注目する安里さんの研究にこのような視点が取り入れられれば、研究の現実にコミットする力を高めることにつながるのではないかと考えた。

「共通言語はなくコミュニケーションもままならなかった」頃、八重山の工場での労働の形態は、フォーディズムに近いものだったかもしれない。しかし戦後になり、担い手が移りかわれば、それは以前の形態を残しつつもやはり変化しただろう。他方で、戦後の島には、必ずしもそうでない人を含めて、「台湾人」としてやって来ていた女工たちもいた。また、「非常時」にせり上がって来る暴力と秩序の平定を担う林発というやくざめいた(資本家でもある)人物が、妄想ではなくリアルに「活躍」をしていた。商社をはじめとする資本とやくざ(であり資本でもある)、流れ作業に従事する熟練のバイト・・・。農業の技術や知識、開拓の経験を持つ人々は、渡った先で熾烈な競争をしたかもしれない。専門的な知識、技術があったとて、それとはまったく別の作業に従事していたとも限らない。「計画移民」とはいっても、そこに産業を根付かせたり、社会をつくったり、生活を支えたりしていくような制度がつくられるわけでもなく、移住するからには何らかの制度的なものが必要な場合が多いにもかかわらず、資本の領分ではない部分を引き受ける主体は特に見当たらない(少なくとも、ちゃんとやろうとした痕跡は文章からわからなかった)。

このずさんな(そもそもずさんなものなのだろうが)植民地化のような事態がおこなわれ、広がる光景は、今日的な社会と似た感触を伴っているように思えるとともに、それが異常な例外ではないと言われているとおりの資本主義のあり方を示している。こうしたことの背景には、冷戦下に継続しつつ、新しい展開を繰り広げた米国を中心とする帝国(主義)による収奪の問題が確かにある。しかし他方でそれが、沖縄につくられた政府や民族資本と呼ばれる資本、移住していった人々によっても担われた展開であったことを思うと、沖縄という名で代表させる政治に抱え込まれている困難さの一端が感じられた気がした。そうであっても「米軍占領下沖縄におけるパインブーム再考」と題を付すこだわり方は、またあのパインTシャツの時の情熱を思い出させる。先遣隊のナラティブに、パイン産業への思いがあらわれていると記した情熱が、この研究の軸になるのだろうと思った。

また当時の糖業に目を向けるなら、そこには既に関税によって保護されねばなり立たないという世界的状況があった。そんななか、パイン産業は、関税が下げられていく72年以降すたれていくことになる。世界市場の中での八重山は、パインを産業としてというより一瞬の投資先として伸び、それでも人は、台湾経由で入って来た帰僑をはじめ、大規模に移動した。背景に、産業はどうでもいいという金融資本の動きとして、1957年には、(何をきっかけにして?)金があふれ、投資先を探していた金融資本が八重山に集中するという流れがあったようだ。既に述べてきたような状況下で、それまでの知識や経験、技術、そして付け足すならば関係が、「精神勝利」を支える以外で(それを含めてでも)、生活をつくるといった際にどう意味を持ち得たのか、本当に知りたいと思う。そのせいか、実際の作業がどういう風におこなわれたのか、工程がどう担われてきたか、その具体性を抜きにして知識や技術が論じられることにはあまり納得がいかなかった。研修や島の労働現場で視たことも、知識や経験に大きく含まれるのではないだろうか。

また、島での再生産領域がどのようになっていたのかについても、知りたいと思った。移住したのは、パイン産業に直接従事する労働者として渡った人ばかりだったわけではない。何より、再生産を担わされる部分に多くの「しわ寄せ」や「負担」がいくようにできている社会で、どういう知恵や工夫がなされたかは、パイン産業にかかわる知識や経験、技術から除かれる話ではないと思うからだ(god may be in the kitchen.)。文章によれば、ハワイ研修に行くのでも、世話(ケア)の部分はまったくの受け入れ家族任せだったようである。反対に、政府に負担させるという林発さんと中華民国政府との関係は、注目に値する気がした。林発の名が記憶されているのは、暴力性と同時に、その場所で生活をつくることとの関係においてなのかもしれない。何でも抱え込めてしまう場所を握っていた彼は、中華民国政府から見ても、要注意人物だったのだろうか。ペーパーのさいごに、林発とそのつながりのほかに、と書かれていたが、政府と林発のような人物の動きがとりあえずは別個のものであるとして、「ほかに」と書けるような関係しかなかったかどうかは、今のところまだ断言できないように思われた。

72年以降は、台湾から殆ど人を動員できなくなる。そのかわり、韓国の廃坑になった炭鉱地域から、女工となる女性たちを中心に、労働力として連れて来るようになったという話が出ていた。当時の韓国は、親米軍事政権による開発独裁が押し進められていた時代である。韓国との間で研修制度がどのように運用されていたのか、わたしは知らない。が、地域間の格差を埋めようとするなかで、政治的にも、経済的にも都合の悪い労働力の屑が発生し、その人たちを「研修生」として、とりあえず放り出し得る場所が八重山だったのかもしれないと思った。それならそれで、その後に何が待っていたのかを知る必要があるけれども。同じように、台湾からも、義士など、反共国家として売り出し中であるがゆえに受け入れたものの、扱いに困った人々が八重山にぽいと送り込まれていたようである。

ところでわたしは、最近までしばらくソウルに滞在していた。限られた期間ではあれ、住んでみたところの韓国は、故郷を出て働くという意味での「出稼ぎ」にとどまらない、都市への完全移住、そして、多くの人が土地や持ち家を持っていないがゆえの断続的な移動を前提としながら社会がつくられている。ある意味、ディアスポラを基礎とした国のようだった。植民地下での地域社会なるものの崩壊に重ねて、朝鮮戦争で「とどめ」(支配の観点からも抵抗の観点からも、とどめが終わり、という意味にはならない)を刺された感じがあるとも思われた。あの場所で、民族ということがあれほど大きく主張されるのは、そうした社会のあり方にもかかわっていると思う。基地建設にともなう沖縄本島の開発や土地接収の話がされていたが、軍事、開発、そして移民社会のような社会のあり方に着目しつつ、韓国のことも視野に入れてみれば、さらに色々考えられたり、分かってきたりするかもしれないと思った。

同時に、そうした職や住居の流動を基本とする不安定性、押し付けられる破壊を前提に社会が成り立っている(もちろん好んで前提しているというのではない)ことへの構えと、あの力強い人々のパワーも無関係ではないはずだと思った。冨山によれば、73年、コザを活動の主な場所としていた沖縄学生闘争委員会(金城朝夫や松島朝義らがいた)は、沖縄の復帰問題に台湾人労働者の話を入れて主張を展開した。このまま復帰がおこなわれれば、彼らは不法移民になるかもしれぬと、復帰をめぐる闘争に入管闘争を重ねたのである。バブリーな経済のなかで生まれる人の動きがいかに変革の力になり得るのか。そのことを身近な文脈に置き直して考える時、昨今のミー・トゥ―運動にもあらわれているように、「ウリ」が単なる同質性の集団として想像しづらくなりつつある韓国の状況を世代間や「男女」間の対立に回収してしまうのでもなく、別の敵対性へと向かう道筋がこれから確保されていくのだろうと信じられる気がした。

では、ここにいるわたしは何をするのだろう。

研修制度において、50年代には白色テロルが横行する台湾に渡ったり、軍事独裁政権下にある韓国へも渡ったりしていたらしい労働者たちは、労働運動など「ろ」の文字だけで弾圧を受ける、ないしは殺されるその場所で、何を視たのだろう。そうした世界における労働と研修制度とのかかわりを、どのように問いとして考え得るだろうか。とりあえず、その問いがすぐさま解放や救済といった困難な希望に結びつくか否かを議論しても仕方がない。ただ、おそらくはわかりやすいかたちでは視えてこないだろう。

「それ」(ら)にこだわるなら、引きの目線の他に、接近していく虫眼鏡が必要で、さらには問いが議論されていく過程で確保される瞬間(であるとともに生成の過程でもある)を逃さない記述というのも要りそうだ。このようにパイン産業にかかわる知識や技術、経験に目を据えるということは、複数の視線を同時に確保し得る場や関係の拡がりを予感させる。とりわけ、虫眼鏡で視た時どんな言葉に出会うのかに、わたしは興味がある。また復帰後、研修という名のもとに、(韓国の)炭坑地域から八重山へ働きに行ったという女性たちは、かの地で何を視て、どのようなことを感じてきたのか。彼女らのその後についても出会い知ることができたならと思う。

パイン産業がバブルを迎えていた当時、「よそ見をすると即クビ」が当たり前だった台湾の労働環境に対し、八重山の「ナマケぶり」がさかんに指摘されていたという。台湾の労働者を見習わねば、と、八重山で産業に従事した人は確かに思ったかもしれない。今回、その昔火曜会で読んだウェンディさんの本に登場していた大宜味村の人々に、偶然また出くわした。安里さんの記述や話によると、大宜味から割合たくさんの人が渡っているようなのだ。なかには計画移民の制度を早く整えてくれとする要求への当局の対応の遅れにしびれを切らし、許可なしの「先遣隊」を名乗って先に行ったつわものもいて、そのうちのひとりの言葉(聴き取りにて)も記述の部分を構成していた。

ウェンディさんの本を読んだその記憶をたどれば、戦時期、大宜味村出身のエリートたちは、沖縄の伝統や共同体的な特質を賞揚し、主張しながら、同時に生活改善を猛烈に押し進めた。いわば、沖縄におけるファシズム―とても平べったい言い方になってしまうが―をその手で担ったのである。大宜味村は、それでも「日本人」という枠のなかに入れなかったという、うっとなる感触とともに記憶に残っている村の名だ。今回、その人たちにまた出会うなかで、八重山にやって来て、そこで生きる道筋を確保しようとした動きが、戦前からの継続性にとどまらない、より主体的といえるような新たな展開でもあったことを見落としてはならないだろうと思った。だからこそ、国籍による分類におさまるとは限らない(それからはみ出す要素を抱えた)人々がひしめき合う「フロンティア」で、「商品」化した(された)ものや人同士がどのように出会い、互いを視つめ、すれ違いながらかかわり合ったのか、そして、いかなる集団化や人種化がそこで生じ、またおこなわれたかを含めて具体的に知りたいと思った。

そもそも工場というアーキテクチャにより、人を閉じ込めること自体、監視と規律の合体したような空間を可能にする。経験や技術、知識を持つ人々は、農場および工場などでどのような時間(性)を生きていたのだろう。発表を振り返りながら、経験が改めて言葉にされる時、その意味作用が未だ決定していないものとして、移動によりもたらされる人との出会いを待ち構えていたことが明らかになるのを感じた。史料やナラティブと「研究」および「研究者」たちとの関係は、権力を行使しているにもかかわらず圧倒的な受動性にさらされるなかで、この未決性を能動性において可能な限り未来へと開かれたものにする「業」のような形態を持つのではないか(と、やっぱりわたしは思う)。

安里さんの文章を読んだ時、世界が何重にもなっているような、それが記述というかたちで示されているような感覚を覚えた。人間の言葉で言い表すにはあまりに複雑といえる世界の様態が浮かび上がったせいだと思う。歴史は、問答無用にその流れを一本化し、一方向に進んでいく時間において、時間とともに認知されている。それはわたしらが言葉を特権化し、またそのなかでもある種の言葉を特権化していることにかかわるだろう。地球上のほとんどのところで人は、いわゆる言葉によって時間という概念を獲得してきた。だが、時間をどのように概念化し得るかもまた、あくまで複数の経験がいかに言葉を獲得するかにかかっている。いわゆる「言葉」を持たない人たちも地球上に存在しているとの人類学的研究は、目指す方向の実現可能性を示す証拠や根拠ではなく、わたしの思う言葉を特権化しないかたちで言葉というものを思い浮かべる助けになる。

かつて出会った大宜味村の記述がそうであるように、身体についた傷跡は、しばしば思わぬかたちでの接続(再接続を含め)を引き寄せる。言葉に向かっていく際、能動的であればあるほど、確かに読み手は深い傷を受ける。けれどもその傷は、不可避かつ受動的な質を帯びる損傷を能動的変型という動きとして、動きのなかでregenerateするべく、説明を求めて身体を次なる探求へと駆り立てる。傷に限らず、文章を読む時、身体は部分的に接続しながらなおかつ距離を測り、応答するという行為において、とりわけ書くという切断において、とりあえずの自立を表現する。

知りもしない場所や時代が、現在わたしが生きている社会に感触として似通っている。そう感じるのは、身体が、公の、大文字が幅を利かせている言語においては認知されていない時間性を帯びて存在するからなのだろう。配布されたペーパーを朝、ひとりで読んだ時は、八重山ってどんなこところやったん?!と、冒険をさせてもらったようだった。しかし、これまでの議論に参加してみた経験を振り返ると、議論を経た場合、その冒険がさらに複雑化し、豊かになっていたことに思い当たる。多くの時間や場所とのつながりがリアルさを伴って身に感じられ、紙上に描き出された世界の立体性が、複数の経験が言葉を持つ出来事のなかで、身体とともに、「身体」として、浮かび上がるということが起きるのである。

地理的にしか表しようがないと思われている空間にかんしても、身体および時間に注目して考えれば、別の把握の仕方を提示しやすくなるのかもれない。数年に渡って放蕩のような移動を繰り返した経験に照らしてみると、その間に身に付いた時間の感覚は、固定されている(ように思える)社会に根を下ろす(という意味での「定住」)している身体が感じているそれに比べて速度を落としたものになっている。

ある人は、爆弾「テロ」の後に刑務所に入れられていたところを革命組織によって救出され、そのまま約二十年間を海外での活動に捧げることになり、身分を隠して移動しながら暮らした後、逮捕をきっかけに帰国し、また二十年近く刑期を務めた。その人に会った時、彼女の社会的な時間が止まっていて、ようやく年齢が動き出したようであることに気が付くのと同じ仕組みによるものと思われる。時間の流れは、場所、もっと言えば(場合によっては、と留保をつける必要があるのかもしれないが)、関係や場面によって異なり、必ずしも一律ではないのだろうとも思う。

そのような、生きていて感じる不思議さについては、既に概念化するかたちでの説明がなされていることと思う。けれども、それらの知識のみに頼って、均質で空虚な時間を消し去ってしまうことはおそらくできない。というのも、概念のどこをどんなに掻き回したところで、性をめぐる言説の領域がしっかりと抑えられている限り、攪乱しようとする動き自体が、あらかじめ取り込まれている条件から身を引き剥がせられないと思うからだ。わたしには、竹村さんの文章や彼女が議論しているバトラーに接した時の引きこまれる感触、そして理論的整理に接することでもたらされる驚くほどの静けさが忘れられない。その身体が残した言葉と無関係に、レイシズムの研究をやろうとも思っていない。

身体は、市民社会なるものが押し隠してきたinicial disorderとでもいうべき非例外状況があらわになる

場所でも、時間でもある。それらがクロスする地点と考えれば、より感覚にマッチするだろうか。いずれにせよ理論を参照する必要があるのは確かであり、身体が説明を求めた時、それへの応答は、時間や空間をめぐる議論と身体をめぐる議論を交わらせるのみならず、ありとあらゆるものの組み合わせとしてしか表現され得ないと思われる。

同じようなことを考えていそうな人に出会っても、他者と自分との区別があまりにも紙一重である場合、つきまとって割り切れない部分での違いが引っかかる。「主体的」には折り合いのつけようがなかったとしても前に進む、その自分なりの方法がほしくなる。「個人が言葉に帯電する」(冨山「視ているのは誰なのか」)という印象深い翻訳による、傍らに立とうとするような「介入」が、自分にとってどう映ったのか(どう問いとしてかかわるのかと思われたのか)をほんの少し思い返してみよう。

わたしにはあの文章は、論じている内容には問いかけのほかに言うことがない気さえするものだ。

あれ自体が、竹村さんの言葉を受けて、この言葉で終わりにするわけにはいかないという決死の言い換えだったように思う。書き言葉同士の関係においてあり得るのは、かわりに語るのではなく肩を並べることのようで、言い換えは言い換えにはおさまらないかたちで作用する。抑圧的な制度そのものとは別のリスペクトを払いながら対峙し続けるのには、大変な力が要る。言葉はすべて、そういうつもりがあってもなくても、次に言い換える言葉の登場を、ある意味では虚しさとともに待つほかないのかもしれない。議論の場はこの待ち時間をやわらげて、言い換えの作業をより豊かにする機能を持つ。

読んで何かを言う側にとっても、テクストおよびそれをめぐって出される多様な切り口に出会い、振り返りつつ感触を確かめるなかで、自分にとってのテーマや切り口に至る説明をようやく少し明確化することができる。気付けばこんな話ばかりしてしまう自分は、もう少し想像力に地に足の着いたスタイルを交わらせてみようと思った。

安里さんの研究は、場所の話をしながらも、領土的なものとは異なる認識を提示しようとする。視角として掴みかけている世界を文字にて把握し直すということは、その媒体の特質上、どうしても動き続けるイメージの持つ浮力を失わせる側面を持たざるを得ない。が、それをやりとりのなかで確保し直していけるような研究ができれば、認知はされているけれどもまだよく見えない「フロンティア」をめぐって、資本やシステムに対峙していく方法のひとつをあらわすことになるかもしれないと思った。研究とそれ以外の生(死)にかかわる領域や関係とをどこかで区別する必要はあっても、両者を切り離せはしない。そのうえ、身体の破壊やつくり直しといった、この現在を出発点として繰り返される手探りは、決してわたしらの身体によくなじんだ行為ではないし、その過程が心地よく感じられるとは限らないとも思う。それでも訓練(ゆじんさんは「身体レッスン」と呼んでいた)をするのは、その先に何らかの展開を見据えているからとしか思えないのだが・・・。

今ある知識に「すべてを変えろ」と要求してくるテーマに対し、フィールド調査をしたり、いわゆる最初から舞台が用意されていて、制度にのっとったかたちでの研究活動を深めたりするだけでは、たとえば既に別の場所でなされてきた試みに比較しても(比べてどうという問題でもないが)、どう考えても不十分過ぎる。

わたしがフェリックス・ガタリやフランツ・ファノンのやってきたことに、そしてその言葉の帯びている現場性に興味を持つのは、何故だろうか。歴史を学ぶ行為は、どこかで自分というものを歴史的に説明しようとする試みにかかわっている。現場はそれぞれにあると思うが、やっていこうとする研究や活動に意味があることはわかっていても、意義があるというだけでは、「何らかの展開」につながる欲望を本格稼働させる手前の時間は長引いてしまう。何かしら肯定的な情熱の対象となり得るものとそれ(できそうだと今の時点で思うこと)とを巧みに組み合わせられないものだろうか。パインや沖縄を眺めながら、もっとやる気を出して動いて、頭を使えと自分を罵ってみる。

研究する行為自身に意味があると竹村さんは言っていたけど、それに対しても、大声でイエスと言いながら、他方でノーがこだまする地点にまた、自分なるものを感じ取る。

わたしが生きた、存在の根本に生身の他者を喰い込ませる人生の展開は、その目をつむっても視えてしまう暴力性ゆえに、身体がそれまで求めていた事柄に対するよりアンビバレントな態度をもたらした。このいうならば壊滅した焼野原から、説明を求める旅がまた始まって、今度はどこへ行こうというのか。これまでとは違う展開はこの場合、廃墟に焼け残った生き物として、そこにふたたび社会をつくらねばならない位置に自分を意識的に置いてみられるかどうかというところではないか。

もう一歩耐えてみる、そして少しでもやってみたいと思うことをやりながら、手探りを続けてみる。どうしようもなくたって発揮され得る能動性とは要するに、つながりを含めた現場性を見失わないように、確保し続けられるようにと努力するなかではじめて表現される「態度」のことをいうのだろうか。

ざらついてしんどいのを我慢して歩く(森崎)。連帯は近似する意識の対決から始められる(森崎)。その程度のことしか、今はわからない。ただ、ずっと同じ場所に停泊するほかにないという気は、以前ここにいた時に比べてもうあまりしなくなった。

あのバートルビーがもし、「墓場」(収容所)で拒食死していなかったなら、どう生きていただろう。

薬の一時的効果や享楽という名の病が破れて、頼りにはならないけれど確かにある生活とともに、廃墟に残る最後の誠実さみたいにして養われる思想の持続性のようなもの。なにかそういう「作品」を残していけたなら、どうして生きていなければいけないのかと呪いつつ、死ねばいいのにと言われても自分でそうはできなかった仮定法的側面を、別の未来に振り向けられると思う。

自分にとって、どこかに行きたいという一見して積極的な欲望は、何もできないと勘違いする過剰適応状態の不安や空洞、そしてその延長線上に漂う、これまでの痕跡ごとわたしが消え去れたらという、拭い去れない願いの裏返しでもあった。けれどもそれは、言い換えれば、問答無用の「選択」から逃げるのはなしということ・・・?

「言葉」に賭けてみることにおいて、もしかしたら、そうした夢をまったく別のかたちで叶えられるかもしれない。