火曜会通信(79)ー米占領期沖縄における農業研究指導所・普及事業をめぐって
米占領期沖縄における農業研究指導所・普及事業をめぐって
―技術と支配、せめぎ合うひとびとの生存と願い―
2018年12月5日
森亜紀子
沖縄県立図書館の思い出
今回のペーパーを議論してもらう時間が来るのを、私はいつもよりもワクワクして待っていました。なぜなら、米占領期沖縄における農業試験場(当時は農業研究指導所と呼ばれた)と農業改良・生活改善普及事業を対象とした今回の発表内容は、火曜会参加者との出会いがなければ思いつかなかったものだからです。もっと正確に言うと、「火曜会がきっかけで出会い、次第に沖縄県立図書館の郷土資料室に時間を合わせて集うようになったメンバー(以下、沖図メンと略す)との共同作業がなければ思いつかなかった」ものでした。
当日の議論の前に触れたように、ちょうど一年前の今頃、私は<戦後沖縄・農業・技術>を対象とした「何か」を書かねばならない状況にありました。最初は、沖縄県立図書館でこれまで私が追ってきた南洋群島引揚者の「戦後」を調べていたら、やがては農業や技術に結びつくような何かを見つけられるかもしれないと考えていました。しかし、いくら調べても何も見つけることができず、挫折(この時点で二年経過)。そこで藁をもすがる気持ちで「農業」の棚をじっくり見ていると、『琉大農家だより』が目に留まりました。琉球大学が農家を対象とした雑誌を発行していたという事実そのものに興味が湧き、順にページをめくっていく中で目に留まったのが、確か最終号にあった、「これまで琉球大学農家政学部と琉球政府とで二重化していた農業試験場・普及事業が日本復帰に当って一本化される」と書かれた記事。読み進めると、ミシガン州立大学とUSCARの意向で、琉球大学に琉球政府の試験場・普及事業が吸収されそうになった時期があり、それに対して琉球政府や市町村が抵抗したために二重化した状態が続いていたことが分かってきました。しかも、この問題が浮上したのは、<銃剣とブルドーザー>の時代。この時一体何が起きていたのだろう…!? 関心は一気に高まりました。
しかし、私はここでも壁にぶち当たります。占領期についての知識が浅く、興味があることをどういう風に調べたら良いのか分からなかったのです。そこで手を差し伸べてくれたのが沖図メン(Kくん、Asatoさん、Asacoさん、そこにいなかったのになぜか存在感を醸し出していたRimaさん)でした。沖図メンの秘密基地は、郷土資料室のカウンター裏にある自習室です。そこでは様々な密談がなされ、相談者の助言に応じて関係のありそうな本が次々と持ち込まれました。秘密基地と郷土資料室の本棚を往復する中で、伊江島へ向かうまでのひと時を過ごす岡本さん、脇目も振らず過去の新聞記事を繰る桐山さん、仕事の合間に忙しそうに調べものをする謝花さんとすれ違いました。伊波普猷が県立図書館の館長をしていた時には、「図書館はさながらサロンのようだった」と言われますが、私もその時代の空気を吸っているような気になったものです。沖縄県公文書館へ足を延ばすと、10年以上も前に辺野古の座り込みテントで共に時間を過ごしたDOIさんが、USCAR資料の調べ方を資料保存の仕組みから丁寧に教えてくれました。私のペーパーは、こうした場があったからこそ、仕上げることができたのでした。
<あの秘密基地>は、今はもうありません。沖縄県立図書館は今月15日に県庁近くの旭橋に新装オープンし、与儀の図書館は役目を終えたからです。私は与儀に特別な感情を抱いています。何度も通った場所、秘密基地のあった場所、おっちゃんたちが木の下で将棋を楽しんでいる与儀公園がある場所…、それだけでなく、実はあの一帯は、私がその時まさに調べ始めていた農業試験場があった場所だと知ったからです。与儀のホテルに宿泊していたある夜にネットサーフィンをしていてこの事実を知った私は、雷に打たれたような衝撃を受けました。それまでに何度もUSCAR文書に“Yogi Experiment station”という単語を読んでいましたが、その単語が、今自分がいる県立図書館・与儀公園の一帯のことを指していたとは…。確かに、改めて見渡すと平坦で広い土地。メインの農業試験場は戦前から与儀にあり、復帰前には首里の琉大近くに移転、現在は糸満にあるとのことでした。県立図書館・与儀公園一帯は、かつて農業試験場が開かれていた場所だった――。そのことに気づいてからは、そこにサトウキビが植わり、芋が植わる様子、試験場の技師たちが、沖縄農業には何が必要かと働く様子を思い浮かべながら過ごしました。見慣れた風景が別物に見えた瞬間でした。
ディスカッション : 沖縄戦後における植えること、科学・技術の意味
こうした時間を含み込みながら出来上がったペーパーは、沖縄県立図書館に集っていたメンバーとは異なる参加者に読まれることにより、新たな息吹を吹き込まれたように思います。今、改めて議論を振り返ってみると、多くの方が発された様々な問いは、「沖縄戦後における植えることの意味/科学・技術の意味」についてより深く考察することを促すようなものでした。例えば、天野鉄夫の経験に触れながら述べられた、移民の時代・沖縄戦を生き抜いた人々にとって木々や作物を植えることは<悼む>ことでもあったのではないかという問い。世界各地から沖縄へ種子が持ち込まれるルートは、天野を介するものだけではなく、ハワイなどから送られた戦後復興のための様々な物資や戦後まもなく再開された海外移民を輸送するための船を経由するなど様々にあっただろうという連想。戦後復興といった時にまず思い浮かぶのは建物だったが植生やそれを含む風景に関しては盲点だったという驚き。琉球大学農家政学部長となって合理的な農業を推し進めようとした島袋俊一にとって<科学>とは何だったのか、それは戦前の皇国史観を乗り越えるために<科学(マルクス主義)>をよりどころとした戦後日本の知識人の心性と重なるものだったのだろうかという問い。ミシガン・ミッションのいう「民主的教育」の不可解さ。琉球大学の農学と家政学が一体となった「農家政学部」とは何なのか?という問い。大学という場所・そこで生み出される学知が植民政策に深く関わってきたこと、北海道大学植物園の歴史がそれを物語っていることとの共通性を思い起こしたとの指摘。ロックフェラー財団やフォード財団のバックアップによって1960年にフィリピンに設立されたIRRI、それが1971年に拡張され、同じ年に琉球大学に熱帯農学研究所が出来たこととの関わりについての示唆…。必死に記録したノートを見返してみるだけでも、私が撒いた種は想像していた以上の広がりと深みを持っていたのだと思い知らされます。それは、農業を媒介とした権力による支配の脅威とそれとの緊張関係の中で生きてきたひとびとの行為、両者の関係性について再考する必要性を示してもいます。
アメリカ(陸軍、USCAR、ミシガン州立大学)・日本(特に植民地から引き揚げた熱帯農学者)にとって、沖縄とは、沖縄農業とは、熱帯農学とは何だったのか、複雑なポジションにいた天野鉄夫・島袋俊一は一体何を見て、何を成そうとしていたのか、資料には現れることのない普通の人々にとって植えるという行為が持つ意味は何だったのか。これからも火曜会で発されたコメントを思い返しながら、それぞれの位相を丁寧に追っていきたいと思います。新・沖縄県立図書館においても、新たな共同作業が展開されることを期待しながら…。