火曜会通信(81)ー「いのち」を思考する現場から/へ ー沖縄と東京の反基地運動における〈当事者性〉の獲得過程
「いのち」を思考する現場から/へ
――沖縄と東京の反基地運動における〈当事者性〉の獲得過程――
(2018年12月12日)
山本真知子
報告してから2カ月が経ちました。この間、考えていたのは、「研究」とは何なのか、そして「運動」とは何なのかということでした。今回の通信では、火曜会での議論から、研究行為あるいは私自身の立ち〈位置〉を見つめなおしはじめるまでのことを中心に振り返りたいと思います。
コメントを受けて、まず再考しなければならなかったのは、「当事者性」を獲得していくということはどういうことなのか、何を獲得するものなのかということでした。そもそも「当事者性の獲得過程」という言葉を用いて考えようとしていたのは、他者との出会いを通して変わっていく関係にありました。いいかえるとしたら、自ら(のいのち)が危機にさらされている状況のなかにいることを前提として受け入れることからはじまりうる言葉に連なる関係、そしてそれらが深まっていく過程に光を当てて、「運動」を描きなおそうとしていたのです。
しかし、今回いただいたご指摘を通して、「非当事者」とされてきた者/本質主義的な「当事者」と名指しなおしアカデミックに運動を説明しようとすることが、何をいっても自らの言葉が聞き取られえないという状況、すなわちそこに作動している暴力を不可視化することと不可分の関係にあったことに気づかされました。これは、私自身が境界線を引きなおし、聞き取りえない言葉を(再び)つくり出していたということに気づいた瞬間でもありました。さらにいえば、「他者」に対する自らのあり方を問いなおさずに、運動、そして研究をつづけていくことの不可能性に直面したのも、この気づきに深く関係しているように思われます。
ここで重要なのは、そうした〈気づき〉を介して、運動を研究するということにどうかかわったらいいのかという問いを抱えていくことにあるといえるかもしれません。この問いとの出会いから、何を/何のために/どのように「書く」ことが求められているのかということを問いなおし、「語りえなさ」を言語化していこうと試みるようになりました。しかしそれは、何かを言葉にしてみようとする度にいいよどんだり、沈黙したりするしかなくなる困難な過程でもあるでしょう。たとえそうであったとしても、「語りえなさ」のうちに留まり、それでもなお言葉を紡ぎ出そうとするときに生み出される言葉を介して編みなおされていく関係の可能性に賭けてみたい。そして、その先に何があるのかを探っていきたいと思っています。
今回の議論を通して浮き彫りとなったのは、アカデミックに運動をうまく説明しようとすることが、「運動」と「研究」の不幸な関係を強化してしまいかねないということにありました。そのようにして既存の言語秩序を再生産してきた自らのあり方を見つめなおすだけでなく、運動でアカデミアをどう考えるか、言葉によってどう関係を編みなおしていくかという新たな問いを引き寄せることができたのは、豊かな議論の場があったからこそなのだと思います。いただいた質問やコメントには、ほとんど応答できていませんが、「答えを出す」のではなく、今後も繰り返し問い考えていきたいと思っています。
ともに議論してくださった皆さん、ありがとうございました。