火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信特別編(『始まりの知』読む・書く・語る 2019年5月18日開催)

 

 

読む・書く・そして

ノート・棗茶・炊き込みご飯

 

今回の集まりを経て、はじめて気が付いたことがあります。それは、読む・書く・そして議論するという集団的な営み、それをなるべくきちんと伴わせようと試行錯誤を繰り返す場に接続する知の存在形態には、資本主義社会、商品世界に生きざるを得ない人を支える力が宿るのだということでした。というのも、そのような営み、そして知をめぐるさまざまな行為(動き)は、社会に居場所のない者(たち)を葬り去らなくとも生きていかれるように、ささやかながらもその場所を確保するように浮かび上がらせるからです。多くの場合における家族や恋人のような関係は、そうはすまいと我慢や努力をしてみても、そのような場とはなりにくい。それではいけないと分かっているのに、悲しみを抱えていくしかなくなり、それでも欲する限りは、その悲しみごと生きていかなければなりません。生きている間に(無理なら、死んでからでも)極力そうでなくそうと、とどまりようのない話を生きようと追い求めれば、その大変さを支える何かが必要になる。それらがどういうかたちであり得るのか、また、挫折してそこで終わりにならない欲望をどんな言葉で語れば、支配とは異なる夢につうじるのか。未来を論じ切れば何かが変わるとは限らない。そんな困難を広義の「友人」から区別される間柄に押しとどめて話し合い、乗り越えようとするのは(無論、それは必要なプロセスであるが)、実質的にはひとりで世界と対峙するのと変わらず、二度とは戻りたくない現実を不意打ちのように再生する危険を伴っている。法や制度の問題であったことなどなかったし、今もない。境界は法に対して生産的であるとの権力をめぐる論点とまとわりつく国家への知覚は、あらゆる暴力や権力意志にかかわって理解されるべきだと思う。

このように虚しく生きている人間と違い、知はまだしも「個人」の所有となりにくい質を帯びている。大好きな詩人の書いたものなど、人に見せたくない、教えたくない気持にさせられてしまう言葉は確かにある。それでも、その言葉を本当に大切に、ともに議論できると思える場に自らも接続され得ると知っている限り、むしろどこからでも勝手に歩き出して分かち合われるしかない方向へと、その詩を、そして自分自身を開いておけるのではないかと思う。このことは、「責任」意識のようなもの(場に対するそれではないけれども)との関係において、少しの怖さと、しかし希望としか言いようのない安心感をもたらす。京都から帰宅する電車のなか、そのように感じている自分がいることに気が付き、少し驚いた。

また、必ずしも互いをよく知るとかいうのではない色々な人たちとともに、様々な角度から愉しく、また熾烈に食することのできる本というのは、何といいものなのだろうと、生まれてはじめて思いもした。まるで、子どもっておもしろいよね、と、みんなで可愛がる。『始まりの知』が書かれ、読まれ、また書かれ、議論される場をともにしたことで、そうした育て方を知の形態において先取りしている場がありそうだと分かって、とても嬉しくなりました。そうなる理由は複数あると思われますが、それは編集者の奥田さんとお話ししている時にふと感じられた、もしくは思い至ったことでもありました。

話しは変わりますが、自分が進行役をやるという展開に身を置いてみてはじめて、何故いつも火曜会で、先生があのようにべらべらと喋ってしまわれるのだろうかということが少しわかった気がしました。進行をしていると訊きたいことが出てくるのです。最初は、何か言った方がいいかと思って喋りました。でも途中からは、参加してくださった方にたずねてみたいことがあり(特に竹内さんには、特別支援学校での学生たちとのかかわり、教育現場における知の実践、そこから目指される方向性としての新たな社会形態に引きつけて、どんなことを感じ、考えられたかを質問したいと思っていました)、またゲスト(?)のお話に対しても、さらにたずねてみたい、分からないから質問して確認したいと思うことなどが出てきました。それを変に我慢して、冨山さんはいい人だなどの実にどうでもよい(あくまで、あの場面では…)話に席を譲ってしまったことについては後悔しています。

ところで一昨日の場は、「へんなことを言っちゃいけない」という雰囲気がなかったわけではないようにわたしには思われました。晩に何人かとも話しましたが、あったと思います。ゲストを呼ぶと緊張してしまうのかな、と思ったり、進行役が熱を出して(妊娠8ヵ月ともなると、微熱の状態で過ごすことが珍しくなくなります)少々ぼーっと気味であったことや、司会とゲストの対話に閉じまいと黙ってじっとしていたこともあったり、何故ああいう雰囲気になったのかについては、少し考えてみたいところです。ディスカッションペーパー(今回の場合は、本)によってもその日の雰囲気は大いに左右されるので、それもひとつかなと。そもそも火曜会の場に、発言しやすい空気が流れていた記憶はそんなに多くないし、その重苦しさや緊張感が良いところだともいえるかもしれません。いずれにせよ、何でも言えばいいというものではないと思います。が、口が重くなってしまう程には気負わず、言葉を読んで集まった人たちに話してもらえたら、場がさらに豊かになるのではとも思いました。沖縄やそれぞれのいる場所で起きていること、ナショナリズムでは片づけられない嫌な感じの増殖する世の中の流れや雰囲気にかんして、状況的手触りが伝わる具体性のある話をきちんとすることは大事だと思います。ただそれに加えて、もう少しテクスト自身に即した、あるいはテクストと複数の読み手との関係に即した議論がしたかったかも、というような思いもあります。火曜会特別篇の魔力でうっかり「崖から落ちそうになる」ゲストの姿を見てみたかった。というより、誰かが本気で言って(書いて)しまった、起きてしまった…のをどうするかに、知の焦点が動く現場性や集団性を具現化してみたかったということなのかもしれません。修士論文を書いてしまった頃からずっと思っていることでもありますが、どんなに正しくとも、反知性主義という言葉は、とりあえず別の知と見なすしかなさそうな流れに「属する」人々との、あり得るかもしれない新たな関係の始まりにふたをする仕方で使われていがちではないか。どうすれば研究したことになるのだろう(研究するとは、何をすることなのか)、何を言えば批判ないいは批評し、議論したことになるのだろう。この問いに対する答えを焦って求めることからも、分かったふりをすることからも、『始まりの知』は距離を置いていたように思います。見えにくいけれども別の関係性(への端緒)を描き得るとして、誰かにとっては「夢でもいいから」書かれ、始められねばならない(とりあえずは一方的に始められるように見えるのかもしれません)それを、何とかして「自分」にとっての現実にしょうとしている。そのようなわたしの目的意識は、まったく別問題のように見えるかもしれない事柄を何重にも引っかからせてはたらいている。こんな独り言のように文章を書いてはいけないのかもしれませんが、集まりでのみなさんの話しを聴きながら、そのことを思い出しました。

火曜会に真面目に出始めたのも最近のことで(それまでも、出ている時は真剣でしたが)、ひとの発表にコメントや通信を寄せる以外のことは、ほとんどできてこなかったわたしでした。最後のあいさつの折、田仲さんは「少し元気が出た」と、上野さんは「楽しかった」と言ってくださいました。お二人ともお忙しいなか、また遠方にお住まいにもかかわらず、参加を快諾してくださり、ありがとうございました。直前にも体調を崩したり、胎児による支配のためにコメント文の準備さえ始められなかったり、ぎりぎりまで心配が付きませんでした。当日欠席説まで流れていたそうですが、子どものためにもと最後までやりとおせてよかったと思います。なかなか今出川まで出向くことができない分、実行委員の山本さん、溝口さんには本当にたくさん動いていただきました。福本さんも、製本の仕事を引き受けるだけでなく、多くの自発的判断、行動を起こしてくださいました。当日の準備や会計を手伝ってくださった方々にも感謝申し上げます。閉会後、最後は両方のふくらはぎがつったこともあり、家にも帰れなくなってしまいました。嫌がらずに連れて帰って、泊めてくださった火曜会およびシェアハウスの方々、夜遅くにご迷惑をおかけしました。翌朝になって、今度は『マルクスと商品語』を議論するために著者を呼びたい(今回、三千円ほどの資金が捻出されたけど、どうしようかという相談を受けて)、呼ぼうよと、昨日の残り物をつまみながら話しましたのを覚えています。

今更ですが、顔を見ながら話ししたこと、それからまた読んだことをくぐり抜け、身にまつわりつかせて書くプロセスを含めて、人と一緒に何かをやるのは楽しいことのようです。とりわけ大学(といっても火曜会ですが)でこのように感じたことは長い間なかったので、「できなくても居続ける」ことの意味というか、一歩前に進んだような感触がありました。また、最初の言葉が未だ見つかっていないとようやく文字として書き記し、声に出して言ってみられたことは、やっぱり何かの始まりなのではないかと思っています。方法を吸収する一点にレトリックを見るのが研究者なのかもしれません。しかしもしかするとそうした「観客的」ともとれる視線の傍らには、演劇にたずさわる人が見るところの「断食芸人」のような領域が(「断食芸人の悲哀」『別役実評論集○言葉への戦術』を参照)、半ば以上重なり合いつつ存在しているのではないでしょうか。

辛い、かなしいなどの言葉は、いくら叫んだところで、あぁ、あの人は楽しくないんだな、場合によっては、病気なんだなと了解されてしまうに過ぎない。必死になって説明をしてみても、言葉は出来損ないの演説のように身体の破片を散らかすばかりで、目の前の人にさえ見せようのない思いを手渡すことなどできなかった。それを目に視えるものとして映し出し、ものに託するように押し出して、さもかたちあるかのごとく描かねばならないとする現代詩の言葉には、芸とは言い切れない―芸に込められている―「匕首がある」。思えば、暴力と言葉、主体化との関係を考えてきたなかでは、暴力の、そして「言葉」のそうした「可能性」的側面に注目することが重要でした。託する行為が「芸」にならない詩のような言葉には、批判せねばならない現状肯定性があると感じています。

詩でなくとも、記憶や時間、空間、身体とのかかわりを考えるようになってからは、ものを書く度に(ごくたまにしか、書けませんが)、言葉の伝わらないことを伝えてしまう力に勇気をもらっています。また、「接触」(影とか、肉の隙間とか、「不在」への集中を含む)を機に自らと呼び得る身体を感覚し、他者と「ともにある」姿へと動的に編成し直していく際のことばが担うのは、壊すだけではなくつくる営みでもあると思います。壊すことに向いている冷たい炎から、つくったり、育てたり、台所で煮炊きをするようなあたたかい火に、自分自身に流れているエネルギーの質を変えたいと思ってから数年が経ちました。あまりに余裕のなさすぎる生活から離れようと決めて以降、集まりを企画する気にもなり、ようやく過ぎた時間を少しゆっくりと振り返る機会を得た気がします。

「おばぁちゃんの物語」を書き、<愛のお話>(映像作品)を製作したトリニティ・ミンハは、作品にとって重要なのは、概念だと述べています。曰く、読者や観客に何らかの効果を与えうるかどうかは、それが発信するメッセージではなくそれ以外の数多くの要素―表現形態や文体、言語など―が重要な働きをする。M・マクルーハンも言っていたように、書き方はメッセージを差異化します。極端に言えば、作品にはメッセージはない、あるのは経験、しかも断片としての経験だけなのだとトリンは語っています。また同じ理由で、素朴な政治的マニフェストやプロパガンダと異なり、作品には聴衆もいない。他方で、「わたしたち」は、特定の読者に責任をもっている。コメントにあった擬態の話について、こうした概念にかんする指摘をふまえながら考えてみると、面白くなるのかもしれないと思いました。またたとえば、焼身自殺した女性が語ろうとした事柄をスピヴァクが問題化したように、模倣や憑依とは距離のある擬態(議論の場では、「ねばならない」の「当為」も、ある種の擬態である可能性が浮上しました)という表現のかたちには、聴かれないままになっている声を聴こえるようにするべく、単に引き継ぐのでもなく自ら語ろうとする意思(個人の意志ではなく集団的なものと措定します)もかかわっていると思われます。

工作者の話がどの文脈で出て来たのか、精確なことはよく思い出せません。話を聴きながらぼんやりしている最中に、隣に座っている人が急に飛び跳ねたような、そういう印象です。議論に遅れながらついていこうとして考えをめぐらせていた時に、『始まりの知』のなかで、運動における研究の位置(両者の関係)の話をされている箇所が思い浮かびました。研究は、役にも立たない、どちらかと言えば胡散臭い言葉の領域を運動に確保する。そうした機能は、レーニン主義的な自立と自律の動きを「可能」にしますが、いよいよ本格的に権力が立ち上がる場面になれば、一気に粛清されてしまう。ひねくれて、不平家であり、道なきところに道をつけるも商売人にはなりきらない。こうした不良のような領域をいかに確保するのか(残していくか、ということでもあるのかもしれません)。そういう問題(危機)意識が工作者へのジャンプを引き出したのだろうか、と、話しを聴きながら考えていました。これにも関係する話だと思いますが、書き残すということ、そしてそれをいかに遂行するかには、嘘と事実の明白な対立関係とは異なる言葉の在処のようなものが深くかかわっているように思います。だからきっと、「未だ見ぬ人生への深い理解」(受け止め方の問題かもしれませんが、『始まりの知』は、どちらかと言うと「未だ見ぬ人と人との関係」に力を注がれていたように思います)は、ややこしさに耐え、辛さのなかにおもしろさを見つけ、このように厄介な言葉を欲望する(してしまう、せざるを得ない)なかからあらわされると信じています。

暴力なんかどこにでもある。わたしなんてどこにでもいる。おそらく同様に、痛みってみんな持っているでしょ、そこから始めない限り、バトラーによるサルトルへの批判を繰り返すことになる。傷を引き受けるという言葉が散見されることについて、このような指摘がなされました。これに首肯しつつ、他方でいちいち書かれない別の話しがあるのをどうするかということも、考えたいと思います。何故なら、ひとつには、その別の話しが持ち込まれ得る場がわたしの知る火曜会であり、ある部分、「学生」気分を残した大学でもあるような気がしているからです。「この書評会もまた、「読む・書く・語る」に加えて「聞く・議論する」ということを通して、どのように「傷を引き受ける場にむかう」起点として立ち上がっていくことになるのか、楽しみにしています」の一文を目にした時、わたしはそれだけでも、「やってよかった」とページに書き込みました(会が始まる直前の出来事です)。特に親しい間柄でもなく、ただ今回、この集まりを一緒にやってくれないかとの呼びかけに応じてくださったと思います。でもその応答には、以前に同席した研究会の場でのわたしの発言を受け止めてくれたことが関係しているかもしれない、何かが伝わっていたのかもしれないとわたしには思われました(人文研の集まり自体は、人類学の先生が主催し、『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』というルポルタージュが出たついでに、<モトシンカカランヌー>を上映し、冨山先生、および書評を書いた人や地元出身の「関係者」も招いて、映画と本の両方について話そうというものでした)。

いずれにせよ、今回の「書評会」では、精確な読みにもとづくもっともな指摘がある一方で、自分にとっては納得のいく別の味わいも、分かち合おうと思えば、改めて説明され、確認される必要のあることなのだと改めて知らせてもらったと思っています。余裕なき余裕さえも失われつつある状況下に、「孤絶」と「荒野」に佇むことを余儀なくされがちななかでのことだからかもしれません。が、ともあれ、議論の場で出会うとは、むしろすれ違う感覚に近い気がします。わたしはこれだけ沖縄に囲まれていながら、それを自分のこととして感じ、かたちにしながら考えていく回路を、今回の集まりを開くまでは火曜会通信ぐらいしか持てずにいました。田仲さんの言葉とそれへの応答をしたことは、そんな自分に沖縄が食い込んできたような(決して沖縄を代表するように話されたわけではないにもかかわらず)、大切な経験になると思います。『風景の裂け目』にも恐る恐る嵌り込んで、また会いたいと思います。

やりたい、やりたくない、でも〈必要だから〉やらなきゃ、に加えて、引き受けようと思う(押し付けられるのではなく)「責任」意識のようなもの。「ねばならない」において、これらはいつもないまぜになっています。いろんなかたちで抱え込まれる個人化された不安-晴れない憂さ、ルサンチマン、恐怖、焦燥、後悔、メランコリー、それと同列には論じがたいけれども、関係を模索する必要はあるいたみや傷も、生きていくうえでは不安のようなものなど―が、短絡的、抑圧的運動になる手前のところで素通りを許さぬ言葉の渦になり、つながりにおいてもういちど抱かれ直すような場。「ともに」へと向かおうとする場の構築に関与し、協力してくださったみなさま、本当にありがとうございました。

 

2019/05/23(木) 小路万紀子