火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(84)ー「なぜおかずを作り過ぎるのか」を考察してみる

    

「なぜおかずを作り過ぎるのか」を考察してみる(2019年5月8日開催)

 

                                 姜 喜代

 

先日の火曜会では、参加者の皆さんからたくさんのコメントを頂き、とても意義深く、豊かで楽しい、新しい論点がたくさん出てくる議論が出来たことに感謝しています。また、当日参加できなかった方々からもたくさんのコメントを頂けたことにも感謝申し上げます。声を掛けて頂いてとても嬉しかったし、励まされました。今私の手元には当日の議論を収めたノートがありますが、私の文章を読んで感じたことと自身の置かれている状況とを重ね合わせながら丁寧にコメントして下さった参加者の皆さんのことを思い出しながらこの文章を書いています。

実は、ディスカッション・ペーパーを書いている時も、火曜会の当日も、議論が始まるまで皆さんからどんな反応が返ってくるのかとても怖かったのです。「姜さんの家の私的なお話ですやん」、「ええ歳して親と同居させてもらってるんやから料理くらいして当然ですやん」等の反応が返ってくるんじゃないかと気が気ではなかったのです。

でも私の心配は杞憂でした。まず当日、志高館に着いたとき、火曜会メンバーの友人にばったり会って挨拶すると、彼女は「大丈夫?今日は聞きに来たよ。あとでいっぱいしゃべるからね」とまるで同志のような目をして言ってくれました。二階に上がって火曜会の部屋に入ると、包み込むような温かな雰囲気が私を迎えてくれ、たくさんのメンバーが「頑張れ!応援してるよ」という熱い視線を送ってくれました。また、取るものも取り敢えず駆けつけたという感じのメンバーもおられました。こうした反応を頂き、自分の書きたかったことがちゃんと伝わったのだなと安心したのですが、では一体、この少し前まで私が抱いていた不安な感情とはどういうものだったのでしょうか?私的な家庭空間について書いていいのだろうか、親不孝者だと言われるのではないか、「お父さんかわいそう」と言われるのではないか。そういったことだったと思います。そうした思いと人からきっと非難されるという私の強い思い込みこそが私にこの文章を書かせたとも言えます。こういった私の意識もペーパーを書きながら問題提起したかったところです。

参加者のコメントに耳を傾ける間、私は参加者の方を向いて彼女ら、彼らの表情や目つきをずっと見ていました。自分の家の話を晒して、自分を晒して書いた文章のつもりでしたが、参加者から見られている感じはなく、私の書いた文章を読んでコメントをする参加者は私の文章を読んだ経験、そこから浮かび上がった自身の経験、考え、疑問、不安を話していたから、私は逆に参加者の方をずっと見ていたのだと思います。私の家の話に対してコメントしていたのではなく、多くの参加者の目つき、表情、身振りには自分の経験や不安、これから自分もこういう経験をするのではないかとの不安、恐れがありました。自分の痛みとして私の文章を読んで下さっていると感じました。文章を書き、それが人の手に渡ることで自分だけのものではなくなっていく感覚、実感を初めて覚えたと思います。

コメントと共に数人の方から質問も受けました。きちんと応答できるか分かりませんが、あまり月日が経たないうちに一度応答しておこうと思います。

 

1. 山本真知子さんからの質問

 

山本さんは私のペーパーのp.8「家から逃げ出そうとすると非難されたり窮地に追いやられたりする。逃げたい気持ちにもかられる。でも自分の研究のためにはどうにか身を置いていたいという気持ちがないまぜになっている」を引かれて、自身が関わる運動と研究から逃げたくなった経験を話され、でも踏みとどまろうとするのは、書くことも運動だと思っているからだと述べられました。

「問いを押し込めようとすると体、感情が膠着するような感じになるが、誰かの言葉に触れる、読むことが一歩進めさせてくれたなと思う。書くこと通して、諦めずに続ける中で関係が代わり、空間が生まれることに希望を託したい」と。質問は「どうにか研究のために身を置いていたい」というところを私がどういう思いで書いたのか?でした。

2. 岡本直美さんからの質問

 

岡本さんは私のペーパーのp.8「このペーパーは私が身を置く状況に皆さんからの同情を求めるために書いたのでは決してない」を引かれて、ここが大事だと言われました。今回はヒデさんが軸、研究で出会った(フィリピン人の移住)家事労働者が可哀想には見えないということと重なってきた。具体的な生活を書くことが同情を求めるためじゃなくてなんのために書くのか聞きたいし、一緒に考えたい。ヒデさんが家事労働を研究すること、身を置きたいことがどういうことなのか知りたい。

 

3.Mairead Hynesさんからの質問

Maireadさんからは、「これは私にとって考えたいことだが、繰り返し起こってしまう状況に置かれた時にどう行動すれば良いのか、繰り返して怒った時に、戦略を立てるという。日記を書くこと、我慢する、喧嘩する、諦めようとする。行動としてたくさんあると思うが、どう決めるのかはパーソナル的にも政治的にも重要だと思ったし」

 

4. 増渕あさ子さんからの質問

 

1. 質問として、ヒデさんの中で食事はどういう位置にあるのか。ものすごく共感しながら読んだ。私も強迫観念がある。離れ離れなので、食事でしか家族を作れないと思っている。ワンプレートに罪悪感。親もおかずを作る人だった。親の世代は会津では「食い倒れている人がいつ来てもいいように多めに作るんだよ」と言われて育った。夫婦で家族を作るときに食事が重要だと思ってる。レンジで作ることは、栄養的にもいいはずなのに、家事することで妻としていられるという感覚がある。ヒデさんもお父さんに言われる以外の強迫観念があるのかな?

 

5. 佐久川恵美さんからの質問

 

「居心地の良さはヒデさんにとって何なのか?」

 

まず、山本さんと岡本さんの質問への応答です。なぜ家に居続けるのか。それはやはり母を守りたい、母に恩返しがしたいという思いが強くあるからだと思います。今まで家族を一生懸命世話してくれた母に少しでも美味しい栄養のあるものを作ってあげたい、買ってきてあげたいという気持ちです。また、母から近所の方との付き合い方や洗濯の方法、ゴミの始末の仕方、犬の世話の仕方など、教わることが今でも山ほどあります。生きていく上でまだまだたくさん母から教わりたいと思っています。

家庭における家事はやってもやっても終わらない、果てしない労働ですが、その労働に対して対価を支払われることは稀であり、不払い労働だからこそ、賃労働に従事する他の家族構成員の再生産労働を否応なく担わされること、賃労働者(生産労働者)には引退はあっても家事労働者(再生産労働者)には引退はないこと、そうしたことを日常の生活の中でしみじみと考えていくためにも両親と住み続けていきたいと思っています。

Maireadさんの質問への応答には火曜会での議論の後に起きた後日談を書かなければなりません。繰り返し起きる父の食事の際の言動に耐えきれず、火曜会の数日後に大きな大きな衝突を起こしてしまい、出張も含めて何度も家出を繰り返しました。その衝突の後、父と一緒に食事を取ることが精神的にとても辛くなってしまい、食欲も減ってしまいました。昔から父と喧嘩をした後に食事を別々に取ることが何度かあったのですが、その度に母から「そんなことされたら食事が喉を通らない。そんなことをするんだったら一緒には住めないから出ていきなさい」と言われ、無理矢理一緒に食卓を囲んでいたのですが、今回はどうしても無理でした。ところが今回は母が味方になってくれ、今は両親の理解の下に食事を別々に取っています。増渕さんのコメントと質問を絡めて言うと、今の私の食事は家族と一緒に食事を取らないことに対する罪悪感でいっぱいで美味しくなく、楽しくありません。朝は父が起きる前に食事づくりと食事を終えないとしんどくなるから焦っているし、夜ご飯は一人分をお盆に載せて運んでいるうちに冷めてしまって美味しくありません。でもやはり気持ちはとても楽です。母も「食事が自分たちのペースで取れるから楽だ、なぜもっと早くから別々に取らなかったんだろう」と言って喜んでいます。でも食事は私にとってとても大事なもので、やはり理想は今住んでいる家族と食口(シック/韓国語で家族の意。血縁関係に限らず、一緒の家に住んで食事を共にする関係)になることで、栄養のあるものを楽しくワイワイ言いながら食べたいです。でも食事の席での父の思いやりと配慮に欠けた言葉を聞いて憤慨したり、嫌な気持ちになるよりずっとマシだと思っています。

佐久川さんの質問への応答になりますが、今は両親への感謝を込めて食事を作り、でも食事は別に取ると言うのが私と両親が一番居心地良く一緒に暮らしていくための最善の方法なのかなと思っています。

今回の火曜会を通して、やはりペーペーを書いてよかった、書くことで皆さんとつながれたという実感を持っています。来期もまた書きますのでどうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

・・・・・議論の記録・・・・・

 

カン:女性と家事労働という話をする時に=家父長制度と性別役割分業、今回のペーパーだと、儒教思想の中の女性差別という名詞で説明する人が多いように思います。断定することで見えなくなるものがたくさんあると思っていて、自分は今回「おかずをたくさん作ってしまう理由」についてペーパーを書きながらそれについて考えてみました。
よく何の研究してるの?と聞かれ、そんなん当たり前やんっ、家父長制度やし、性別役割分業やってんからと言われて、「面白くないな、退屈だな」と感じ、議論にならずにしぼんでしまうことが多いが、家事労働の研究はとても面白く、飽きないのです。ぐちゃぐちゃといろんなものをはらんでると思ってて、そこを暴きたいと思っています。またペーパーにも書きましたが、どこから手を着けたら掴めるのかがわからず、いろいろなことを考えたり、読んだり、語り合ったりしています。私のペーパーを読んだ感想でも、なんでもいいから語って頂けたら嬉しいですし、私のペーパー読んでてこの本が、漫画が、映画が思い出されたということでも教えて頂けたらとても嬉しいし、研究のヒントになると思います。

 

冨山先生: 議論を積もらせていきたいですがどうでしょうか?

 

福本さん:おかずが余るのか?僕は家事をしてる。月に5万円以内。食事と酒を賄う。家族から文句出てないからいけてるんやと思う。娘が沖縄から帰ってきて、「友達の彼氏、家事せえへんからやばい」と言うてた。家事の分担要求も色々あるやろし、家事以前の労働ってあるから、それも含めてお父さんは何もせえへんのか?元々仕事してたらそういうのはできるんとちゃうか?義理の姉、沖縄にいる。いとこ会、200人くらい。「そんなもんスーパーでできあいのもんこうたら終わりや」って言うて手抜きしてはるし、日本語学校の経営やってるから。臨機応変さが必要。現代風に法事料理も変わってきてる。変わらざるを得んし。作ってニコニコ笑ってもろたらええやん。負担やったらやめたらええやん。見た目変えたらええやん。僕は家事に時間をかけへんから。ペーパー読んでて料理の工程の起承転結がないからよう分からんかった。僕は長男、両親死去後、法事したことがない。親不孝。ジョンいっぺん食べてみたい。

 

山本さん:一通り読んで、お父様の身振り、言葉から、沖縄でお世話になっている認知症ながら沖縄戦を語ってくれる。家族に対してはわがまま、老人会で出されたもので冷たいと食べない。おかし食べてお腹いっぱいでご飯食べない。自分では何も作れない。運動の現場に行くと、沖縄戦を体験して、反戦運動もしてたからもてはやされていることを思い出した。

ペーパーを読んだ感想は、家事労働、性別役割分業で語り損なわれていることがあるということ。p.32段落目の「自分の不摂生と強欲がたたって透析患者となった父よりも苦労した母を先に逝かせるわけにはいかないからだ」とp.4の「透析治療後の疲れた父の様子を見ると、なんとか美味しいものを作ってあげねばと思ってこれまで頑張ってきた」を読んで、両親とのどんなものを作るかに関わってくると思った。

p.6に出てくる「料理=健康な体を作ること、止めることはできないこと」というところは大事な問いだと思った。P.8の「家から逃げ出そうとすると非難されたり窮地に追いやられたりする。逃げたい気持ちにもかられる。でも自分の研究のためにはどうにか身を置いていたいという気持ちがないまぜになっている」を読み、運動からも研究からも逃げたくなると思うことがあるが、踏みとどまろうとしているのは、書くことも運動だと思ってるから。問いを押し込めようとすると体、感情が膠着するような感じになるが、誰かの言葉に触れる、読むことが一歩進めさせてくれたなと思う。書くこと通して、諦めずに続ける中で関係が代わり、空間が生まれることに希望を託したい。自分の体験とか。質問は「どうにか研究のために身を置いていたい」というところをどういう思いで書いたか?

 

岡本さん:p.8の「このペーパーは私が身を置く状況に皆さんからの同情を求めるために書いたのでは決してない」→ここが大事。今回はヒデさんが軸、研究で出会った家事労働者が可哀想には見えないということと重なってきた。同情を具体的な生活を書くことが同情を求めるためじゃなくてなんのために書くのか聞きたいし、一緒に考えたい。Yさんの質問とかかわるんじゃないか。自分の研究のために調査の新たな対象を見つけたいから書いたのではないと思う。私が家事労働を研究すること、身を置きたいことがどういうことなのか知りたい。タイトルの「なぜおかずを作り過ぎるのか」と関連して、なぜそうするのかを一生懸命に説明していると思う。

1. 何度か、お父さんの発言の後、「のたまう」と書かれているが、これには何が込められているのか?「テレビの方が美味しそう」、「負担に思わなくていいよ」。「なんや今日はこれだけか」にどんな感情が込められているのか。自分は料理しないけど、温かいもの、加工したものを出す手間が、この一言を聞いたヒデさんが、時間、感情を否定されているから「のたまう」が出てきているし、尊敬しながらの言葉に何が込められているのか知りたい。おかずを作り過ぎるヒデさんは家庭をヒデさんのどういう場所に作っていくのかということと料理が関わっていると感じた。

 

2.ある種、家事労働、主婦、主婦の家庭での役割って説明が難しいけど、一つ一つが家庭での役割という仕事と言えない仕事、感情労働も含めて、家事労働を担う人たちが作っているとしたら、家庭を拠点とした時、この家庭の居場所を作るためにお父様は貢献していない。仕事をリタイアしたお父様が今の家庭の中で自分の居場所をどう見つけるのか、どう居場所を作って、どう確認すれば良いのかわからないから、のたまうような発言が出たり、皮肉っぽい発言が出てくるのかと思った。

 

手嶋さん:ちょっとこれを読んで立場、状況は異なるが、自分の家の状況に似ていて、勝手に脚色しながら読んでいた。まず、感想として、p.8からp.9の「自分の居場所であると同時に父と母の居場所である我が家を住みやすい空間に、居心地の良い空間にしたいと考えた」に共感した。でも空間づくりは難しいと思う。P.9のマグレディの家訓は当たり前のことを書いているが難しい。解決といいうか、話し合いを続ければ、、、、、、かもしれない、希望も持ちつつ、居心地の良い空間にしたいというところができたら良いと思う。あとは、お父さんの発言で気になるところが多い。感覚として、困らせたり、という感覚とは違う。P.2の「助けてくれ」とどう繋がってるのか。お父さんにしてみれば、家族は助け合うもの、だから過去に自分は家族を助けてきたと思っている。

p.4の テレビ見て、「美味しそうやな」、「ハングに行かれへん、何が悪いんや」という部分は→本当に美味しそうやと思っていると思う。韓国に行きたいという話と、多分自分の感覚はヒデさんに似てるが、多分そう。家の中で、居心地をよくするためにお父さんがしてきたことが、言ったら出てくるし、品数が増えるし、その差をどう考えたらいいのか。家父長制と重なっている話。居心地をよくすることに対する向き合い方が違う。お母さんのp.5「自分がやった方が早いから」という言い方も。ご飯作ることに対して、自分以外の人が食べることを主に据えてご飯を作ることがすごいなと思った。自分が料理することと食べることが違う話としてヒデさんの中にあるかも。

 

Maireadさん: タイトル読んだ瞬間、問いとして印象的、面白かった。相手の感情をコントロールできない時、自分の行動から考えることは重要だが、ペーパーの状況に対して立てられる問いとしてはたくさんあると思った。

  1. 他人が作ったおかずが美味しいとなぜ言えないのか。どのような問いが誰について設定されているのかが重要だと思った。
  2. 私にとって考えたいこと→繰り返し起こってしまう状況に置かれた時にどう行動すれば良いのか、繰り返して怒った時に、戦略を立てるという。日記を書くこと、我慢する、喧嘩する、諦めようとする。行動としてたくさんあると思うが、どう決めるのかはパーソナル的にも政治的にも重要だと思ったし。

 

いわしまさん:面白かったが、自分自身の問題と近すぎてまとまって話す自信がないが、

 

1.    家事は誰がするか?夫婦間、親子間、自分一人は結構違う。そもそも大人になってから親と暮らす時にその空間は誰のもので誰がキープすべきなのかわからない。そこで誰が家事を担うのかは重要。一人でもしないといけない家事はいくつかあって、誰かに食事を作って出す料理と食べたいから作る料理は意味合い、負担感が違う。

2.    タイトルを見て、自分自身でも考えたことがある、小さい子がいて、2人目の育休中、雑誌、ブログを見てて、無理をせずに研究と生活を両立させるためには、夕食は一品、丼、パスタだけにする。連れ合いと料理も分担してるが、ワンプレート試したが、私が満足しなかった。その方が時間節約できて研究できるが、もう少し色々作ってみたい。「何品か作らないといけないイデオロギー」に染まってるのか、そうしたいと思う自分がいる。何かの規範があるのか、作る、食べる喜びもあっていいはず、作りすぎたっていいじゃないか。という道もあると思った。

 

小路さん:お父さんと私と比べながら読んでた。食べ物に関してわがまま、好きだが、なんでも食べられない事情があったり、食べること自体が複雑なことだし微妙なこと。毎日やってることだがこわごわやってる。食べることは大きいこととしてある。あれやこれやを説明できないし、他人に任せられないから自分がやるが、お父さんは人に委ねてきた。なんてこったという気持ちがする。助けてくれというのは甘えているという気がしないでもないが、悲鳴というかリアルに感じた。そんなに人に委ねられるのがすごいと思った。私は周りとの付き合いの中でどうやって自分を支えて生きていけばいいのか、その中で畑もやって栄養学も勉強しよう、消化吸収はどうされるのかは神経系に関わるかも、現場にも立ってみたい、いろんなことを考えた。ヒデちゃんのペーパーを読んで、農業、神経系、栄養が結実するところとして、どんな場や集まりを作るか、そのために話し合うことが言葉に結実する文があるんだなと思って、重要な結節点で、そこに向けて知識が必要とされて引っ張ってこられる流れがあると感じられたような気がした。ヒデちゃんの場合と私の場合を並行して考えているが、家族、家庭、の関係が別の形態でややこしさを孕んでたりする場合、どうなるのかな?どうしたいのかな?どうできるのか?不満、欲望、可能性がある中でなんかワクワクできるというか、自分か誰かにとって今日明日が楽しみになるような、何かしらの行為を他の人と作っている考察、研究でいいんじゃないかと思って、暮らしと同じく、私は自分一人だと成立しなくて、一人だと生活にならないっていうか、研究考察もそういうものとしてイメージできると思い、同時にそうした考察研究がどういう形でなされ描かれるのか、どうしたいのか、どうできるのか、問いとともにあると思ってました。

 

3.    まだ好きばっかりでもないけど、研究も家事も手放せる道具ではないし、人の身になって考える、すでに自分のものだとする身振り、あり方が家事労働と研究が重なるところの一つではないかと思って。モスの話が、お父さんのヒデちゃんのことを思っているところで終わっているのが爽やかでした。

 

金大勲さん:面白かったし、これを読みながら、家事労働と食べ物が浮かび上がって自分のお母さんの姿を考えながら読まなければならなかった自分を発見した。

P.5 の「食事は基本的には自分が食べたいものを作っている」、この文章大好きで響いたんですが、お母さんの姿を考えた時、自分が見えない。結婚してからはお父さん、子供を中心に優先して作ったお母さんの姿が見えてきたが、p.6,2段落目の「ずっと台所で立っていた」に関連して事件があった。普段は私が洗い物をするが、秋夕(チュソク)のとき、小さい時台所にいた。普通の風景だったが、おばあさんがそこにいて、男は台所に行ってはダメよ。お母さんは言おうとしたが、(おばあさんを怒った目つきでみた)(自分は)どっちか迷った。お母さんはその時自分が好きなものは作らない姿と違う、祖母への反発か、男も洗い物していいとの感覚だったか。何か守りたいものがあったと思う。その姿を見ながら、家事労働の意味について考えさせる、そんな事件がありました。

 

増渕さん:

1. 質問として、ヒデさんの中で食事はどういう位置にあるのか。ものすごく共感しながら読んだ。私も強迫観念がある。離れ離れなので、食事でしか家族を作れないと思っている。ワンプレートに罪悪感。親もおかずを作る人だった。親の世代は会津では「食い倒れている人がいつ来てもいいように多めに作るんだよ」と言われて育った。夫婦で家族を作るときに食事が重要だと思ってる。レンジで作ることは、栄養的にもいいはずなのに、家事することで妻としていられるという感覚がある。ヒデさんもお父さんに言われる以外の強迫観念があるのかな?

食事はおにぎりを握って持たせてるが、無邪気に何の抵抗もなく食べてるから、すごく怖いと思った。何が入ってるか無邪気になぜ委ねてくるんだろうか?(他の人のコメントに)「悲鳴にも聞こえる」とあったが、(食事を作ることには)命を握っている感があると思った。

2.父、母の存在感の違い。母の声が出てこない。家庭の中の反映?文章にするときに書きにくかったからか?違いは何か?お父さんの言葉は生き生きしてた。病気のことで言うと、p.4の「今すぐどうかなるほど悪くないが、病人」のところを読んで、お母さんの方が病人ではないか?と思った。でも病人として認められるのはなぜか?どうでもいいかも知れないが、パッと土井善晴の『一汁一菜(という提案)』が頭に浮かんだ。

 

沈正明さん:p.8の「同情されたくない」を読んでびっくり。同情どころか怒りと戦闘意欲でいっぱい。個人的で失礼だが、自分が日本で博士学位を取って韓国に帰った後の法事の際、伯母、母が料理作るが、手伝わないと親戚から「最高学歴者だからね」と言われる。年下の男のいとこが手伝わないのを見ると、「こいつら、何で手伝えへんねん」侮辱感覚えた。法事の時は家におらんほうがいいと思う。法事多い方ではないが、旧正月には実家を空ける。ソウルでも、拒否する女性も増えたが、夫の実家に行って手伝うが、名節には母が戻ってくるなと言うし、戻りたくないと考えていたので、ステレオタイプみたいに見える絵が見えるから、めちゃ喧嘩してると思う。家父長制、性別名詞で片付けるのはあかんが、戦線としてある。戦えなくするのは家族。労働争議的なものがあるが、「家父長制を学ぶと家庭の和が乱れる」、正しいことを言えなくする、家族の和とは何か?当たり前の価値なのか?

 

2. 韓国の場合、若い女性は結婚を拒否する人が統計的に増えている。機会があればしてみたいという人もいるが、一生非婚でいたい。家父長制の中にいること利害関係が違う。洗い場フェミニズム。川で洗濯しながら、夫や姑の悪口を言う。そこで「いいやっ」てなって、解放されて、同じことの繰り返し。フェミニズムは洗い場フェミニズムであり、何も解放されていない。熾烈であるはずの戦線と家庭が人の話には聞こえなかった。

 

西川さん:昨年上映されたソフィア・コッポラ監督の『ビガイルド』と『ファントムスレッド』では大事なところで女性が台所で毒を作って食べさせる。生殺与奪を握っている。コントロールできない父と家族を栄養管理したい私。

婦人公論で最近読んだ「夫に塩分濃度を上げた食事を作って仕返し」という議論はいつから出てきたのか?1940、50年代の婦人雑誌には出てこない。「なぜおかずを作り過ぎるのか」という議論もこの時代にはない。一汁一菜、作り置きレシピ、断捨離、ミニマリズムとも連動している気がする。いつ頃からも問いなのか。よくここまで書いてくださった。「のたまう」を使わないと書けないのではないか。表現が冴え渡っている。お父さんの話を同情できないし、恐ろしい気持ちで読んだが、父の話をどう立てるか?家事能力喪失者?家事をしてる側の話は多いが、バランス取れていない。セルフネグレクト。家事能力喪失者の問題にも踏み込みたい。

傍らにはあると思っている知識のまとまりを知っているがゆえに自分の生活がしんどくなることがある。栄養知識が自分をしんどくしている。

 

冨山先生:話を饒舌にさせるディスカッションペーパー。そのものが家事労働として一言で言われることを示していると思った。よくここまで家事の世界が書けるのか、何が家事労働なのか、料理に関わる労働なのか、豊富さ、分かりにくさ、が関わる。いろんな関係において変わる。ケア、育児の話、栄養学、医者の言説も介入してきたり。ある広がりを記述仕切れたすごさがある。この広がりをどう考えるのかは別問題だろうが、カン・ヒデさんがこだわってきた、ダラコスタの「家事労働に賃金を」は、実は家事労働論、社会的分析の労働争議の概念。労働運動の中でも「賃金を」と言う話はあるが、労働という言葉を言った瞬間にはじき出されるものがある、誰が働いているのか、外に置かれる人、労働運動から排除される人がいる。実は家事労働についてはそういう議論がされていない。分析的カテゴリーでシャドウワークといえばそれまでだが、何に賃金を?なのかを考えないと、労働運動と同じく排除されてしまうものがある。今こそ前に出た瞬間に横に出て行くものを作らないように、家事領域が複雑、固有性があるかを位置づけることが絶対重要だと思った。違和感が重要かつ、家父長制ではないということを言おうとしているのではない。労働運動でも前提を括弧にくくらないとミイラ取りがミイラになる的な、ある種これが家事労働で賃金ということを決めることで外に置かれるものを作る。家父長制が法的ではなく言葉の秩序、それをどう言葉にするのかが問われている。

昔、ガヤトリ・スピバクは、「私は家父長制、再生産労働という言葉を使わない」と書いた。言葉で作られる秩序がある、使った瞬間に豊かさに関わるややこしい領域が表現されることは、家父長制、再生産労働を使っても閉じたものにならない根拠になると思う。記述自体がこれだけで意義がある。考えたいのは、努力や考えもあるが、記述自身にある種自分が研究することが織り込まれている。どこかで「家事労働を考え出したときに思い出した風景」、知識、考えとして日常を見たときに、普段思い出さないことも見えてくる展開が散りばめられているような気がする。対象というより自分は考えてみる、かく書いてみようとするとき浮かび上がる書くべき対象。世界。ここにいて研究するではない、書く、考える行為が先んじている感じ。よかった。さらにここだけ強調するのは逃げたいが踏みとどまれる、ある意味考えることで生き続けられる。大げさかもしれないが、居続ける、研究のあり方、考えることで生きる、ものを考える、書くことで生きる、い続けようとする、知識のあり方がある。描きながら生きる。涙出るほど嬉しかったのは、受け止めるところとして火曜会があることが、知識はそれがある場所にあるがゆえに考えることが成立し、その場にい続けることができるというときに、ここでこれだけの家事に関わる記述ができたこと、を成り立たせている行為自身が考える、研究する事の意義、その作業で見えてくる、家父長制、家事労働がダラコスタ的な「家事労働に賃金を!」ハマるような概念が再設定されて行くような、Nさんが、名詞的に説明するのではない言葉と言ったような。

 

猪股さん:自分は家事をやる方なので、やりながら考えた方がいいことを思いつくことが多い。中高年になって大学院に入って研究している人がいる。主婦になることでマルチタスクをこなせるようになった。再就職時は非正規職だが、抵抗する力を身につけており、主婦生活で抵抗が服従であるという風にひっくり返すこともできる。

 

佐久川さん:家父長制、性別役割分業の言葉ではないものが密接に関わり、いかに居心地のいい家庭を作るのかが問いとして出てきた。作り過ぎるということに出ていた。祭祀時の美味しいご飯が世界一美味しい食事、楽しい時間、一方、際限のない労働とともにたくさんのおかずがある。おかずが思いを表現している。作り過ぎることも、複雑に絡まったものがおかずの多さを表現していると思った。居心地の良さはヒデさんにとって何なのか?目指すこと、負担、苛立ち、感情労働がつながっているように思った。居心地の良さを求めることと悪さを感じつつ、求める自分を発見して行く。

 

(15分休憩)

 

カン:皆さん一人一人に感謝したい。皆さんの問いには通信で応答するので待って欲しい。

(自分の発言をメモしていないので、この後何を話したのか再現することができない。ごめんなさい)

 

冨山先生:当たり前のこと、分からないことを分からないまま進めること、当たり前のことを言語化するのは難しい。生活改善運動でも同じ問い、問題があった。実は、当たり前の話をどう書くかは大変なことだと思う。

 

岩島さん:ヒデさんの「お父さんは昔から勉強することを応援してくれたが、でも家事をしようとしないことにギャップを感じる」と発言したが、ギャップではない。「もっと働いたらいい」には同意するが、「でも家事はやってね」という人多い。一人前に働いてるのに家事もあるというのはよくある話。どこで男女のすることに線引きすることは難しい。

・  何を労働と考えるか?

・  「男女の学歴やどこで働くかは男女平等で」には同意するが、日常生活で誰が何をするかを勝手に線引きしている。概念の引き方があってそれが問題。

 

冨山先生:「どんどん働いたらいい」と「家事しない」が共存している。何も言わずに(日常生活が)回っていて当たり前。それを考える出発点がここにある。書くことは気づくこと。昔、カン・ヒデさんが家事労働者の話をしてた時、自らの労働の記録を付けていた人の話をしていて、彼女が記録をつけることにどんな意味があるのかという問いも立てていた。なぜ記録を付けていたのか?付けることで何が保証されているのかがここにある。

 

Maireadさん:ヒデさんがやってきた外国人家事労働者の研究と「外に出て研究してもらいたい」、「でも家事はしたくない」がつながった。感覚として、仕事しながら家事をしている女性が家事をできなくなった時に誰かに掃除を頼むパターン。

 

手嶋さん:家事をできない時に誰かが代わりにやる時、家族がやることが別のところに置かれている。(金を払って誰かがやる。家族がやるのがベースにあるのが変な感じ)

 

冨山先生:家事の見える化、Mさんの言った家事代替の構造も出来ている。ヒデさんの文章も労働の話がされないといけない。労働は単なる搾取ではなく、出会い、発見、連帯の可能性、喜びもある。何が労働で何が労働でないかのせめぎあい。今こそ労働に関わる記述、記録もあるし、何かしら労働で起こるのは搾取だけではない、(ダラコスタの『家事労働に賃金を』が豊かさを持つ記述がある。見失うと変なことが起きる。繰り返すが、家事の見える化が出てきているのが状況的にわかるし、変に理解、整理されると怖い。命まで委ねられるようなもの、今的な話だと思う。

外国人を家事労働者にするということが進みつつある。「外国人家事労働者を入れよう」というような。ダラコスタは主婦の家事労働と外から入ってきた家事労働者のことを両方書いている。労働と賃金を結びつける話。それをどう獲得出来るのか?どう連帯できるのか?そのための知識と技術が必要。前倒しにするようなスローガンとして『家事労働に賃金を』があったのかも知れない。

 

増渕さん:議論を聞きながら「こんまりメソッド」を思い出していた。こんまりは大学時代に性別役割分業で論文を書いた人。アメリカに行ってNetflixで人気者になった。こんまりは断捨離させる時に「ときめかない物は捨てる」という物差しを使う。ところが白人男性からは「本を捨てるとは何事だ!」、白人女性からは「家事労働からせっかく解放されたのに逆行しているのではないか?」というバッシングが起きる。アジア系女性の成功に対するバッシングだったかも知れない。こんまりを扱ったドキュメンタリーが放送されていたが、米国では「こんまりメソッド」を実践するときは家族総出で断捨離をしていたのに、日本では実践するのは「お母さん」になる。

 

猪股さん:NHKのドキュメンタリーと言えば、「プロフェッショナル」という番組で精神科医が登場し、「最終的に福祉に委ねるのか?」ということがテーマであった。福祉に頼むことと福祉に頼むことへの強い拒否感が描かれていた。追い詰められた父子家庭がいて、「頼ることは家の恥であり、頼れなかった」と言っていた。「金を払えば解決する」が「でも入ってきて欲しくない」、「荒れているのを見られたくない」

 

冨山先生:白人女性が拒否する根っこに誰が入ってきたか?アジア系が入ってきた。

 

沈正明さん:韓国でもこんまりへの批判がある。日本は家が狭いから服の収納が必要だが、アメリカは家が広いので日本ほど収納に神経を使わなくても良い。白人女性はアジア人女性(こんまり)が床に座って正座してタオルを小さく畳むことを…

 

冨山先生:自分たちの家がアジア人女性に語られることに対する批判だと思う。移民労働者の話とも関わる。「自分たちの家事労働者」と「移民」をどうつなげるか?労働の世界でもある。そこにはフリクションもある。レイシズムや差別が別の形に作り出されるのかという問題。自分たちの歴史で位置付けられる領域に移民ではなく、ある種アジア人女性を巡って…自分たちは労働運動を通して勝ち取ってきたのに外から来た人にはさせる。

 

・  労働至上主義、森崎和江の「労働ですべてのものが作り出せる」

 

西川さん:こんまりの話は感情の話が大きく関わっている。「心が震えたら残す」物に対して感情労働が発生している。「おかずが作られたらいい」→家事労働を考える時、代替可能性ではなく、この人にこの労働をやって欲しいとリンクしている。

 

増渕さん:ときめきはスピリチュアルと連動している。移民は入ってきたが見えなくなったものだったのに→スピリチュアルは自分探し。境界が揺らいだことに対して強烈な反応が起きた。

 

西川さん:NHKのドキュメンタリーも過去にさかのぼり、トラウマ、ドラマとして組み立てられ、見ている人の感情や体験を引き起こした。

 

冨山先生:家事労働の話は家事よりも労働→家事を委ねる。その時家事にはネガティブであり、人が入ってきて自分たちの外で働く。委ねる瞬間に違うことが起きた違和感。自分たちの心臓においている、命が委ねられている。外の領域が主張し始めた。家事の話は、外国人労働者がやってきてではなく、逃げようがない、毒を盛られる中の外部性、外がしゃべりだすとドキドキするかも。

・  エスニックバウンダリーが作動し始める。

・  命が委ねられている。食べる、おかずが持つ意味。そこに関わって、これがないと毎日が生きていけない。誰が作るのか。かみしめていく。ものとも関わる感触。

・  食い物の話でもある。

 

佐久川さん:ヒデさんのお父さんが少しずつ変わる行為をしだしたきっかけは?

 

カン:食事の時に繰り返される父の失礼な言動とそれを拒んだ時の暴力的なものの言い方がかつて受けた父からの暴力を想起させ、そのことを訴えた時に父が「そんなことしたかな?」と知らんぷりをしたことに憤り、大げんかになった。後日その過去の出来事について母が姉に電話をして確認を取り、父が「わしがそんなことをしたのか」と反省。そこから少し私の依頼する家事(冷蔵庫からバターを取る、冷凍庫からパンを取り、レンジにかけること)をするようになった。

 

佐久川さん:繰り返し起こったことが起こらなくなったことが知りたかった。年齢が変わってきて、お父さんへの抵抗をお母さんが隠してきたのを隠しきれなくなって、緊張感と居心地の悪さがあって、お父さんの行動を変えた。

 

冨山先生:「なぜおかずを作り過ぎるのか」に関わることとして、「バターを取り出すこと」、「パンを取り出すこと」という自分が食べる行為を無条件に委ねるのではない、食べることで進化するというか。今までは「持ってきてくれた」が、いつものおかずがいつもと違うようになったというか。

・  美味しい、まずいに関わって食べることで昔を思い出す。そこで確認される家事の話には食い物の話が多い。食い物の話であるがゆえに、「おにぎりの中身が何か分からない」

・  あるいはそこにはカリウムやリンも入ってくる。毎日何を食べるのか?毒入りのおにぎりの話。病人と食い物が絡んだ時、食べ方がちょっと変わる。その中で作り過ぎる。

・  整理整頓し過ぎると取りこぼす話があると感じた。