火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信特別編 ー父よ、殺すな

 

 

 

父よ、殺すな

高橋淳敏

 

 

引きこもり問題が20年以上経っても解決されず否定的に続いているのは一重に、社会や家族も含めたこの時代に生きた引きこもり問題当事者たちが、自分たちの時代の言葉として、「ひきこもり」以外には獲得していないからである。それでいて引きこもり問題が新しかったのは公共の福祉による法治や資本依存の行政による労働統治、学校教育や医療などの狭義の自然科学やテクノロジーではどうにもならないことにあった。引きこもり問題は、小集団の自治と個別の逃走劇によってしかその解決の糸口は見つかっていない。それが今の時代であり、引きこもりこそが代表している時代である。建前が通用せず際立ってきた「ひきこもり」差別は、女性差別や人種差別、障害者差別などを思い起こすが、それらとは違って、この社会に対してよりクリティカルな問題提起であるのは、「普通の人」である私たちも含めた「加害者」に対する差別であることだ。働けるのにもかかわらず働いてもいないのは、役立たずであるばかりか他人に迷惑をかけていることであって「害」であり、「一人で死んでくれたらいい」として、別の存在であるかのごとくあえて名指されている。「ニート」という言葉がそうであった。「ひきこもり」でないと自称する人たちは、「ひきこもり」とみなされないように、のべつまくなしに個々の生活費を稼ぐことに努め、ややもすれば蓄えいっとき安堵する。「ひきこもり」も同じである。親の資産などを鑑み、倹約しながら蓄えられないことに不安を抱いている。川崎の事件を起こした人は「掃除とか洗濯とかを自分でしているのにひきこもりとはなんだ」と同居する伯父伯母に訴えたのだった。彼には「ひきこもり」なんて自覚はなく、それは自らを擁護してもらえる言葉でもなく差別用語であった。今年度、政府は40歳から65歳まで統計調査をし実施し、「ひきこもり」の範囲を拡大した。その年齢間で61万人いるとしたが、定義も曖昧なままで、定年退職しても無関係ではおらないだろう引きこもり問題は私たちの社会の中で、今は組織の中にいても不安や孤独を感じる人が自らに刃を向けるような様子で広がりを見せている。

引きこもり問題とは無関係でいたい人がヒステリックに「一人で死ね」と情けなく言い放った。川崎市で起こった「ひきこもり」による殺人と自死は、中学生の時のアルバム写真しか出てこない報道を見ているだけでも、50代であった彼の長年による孤立が知れたのだった。同居する伯父伯母は自分たちの介護ヘルパーを家の中に引き入れるため、引きこもる甥っ子の引きこもり相談に行ったと話していたが、それは自分たちの介護相談であって引きこもり相談にはならなかったのではないか。いずれにしても、そんな伯父伯母の家から逃げられず、居候しなくてはならなかったがために、全くの孤立無援状態が気の遠くなるほど続いてただろう。このような事件を再び起こさないためには、事前に彼のような人を発見し隔離するようなことは不可能で、引きこもり問題を家族も含めた身近な社会がその当事者として自覚する他はないだろう。

続いたのは「ひきこもり」という言葉に過剰に反応して、元官僚トップの父親が息子をめった刺しにした事件であった。10年間以上も一人暮らしをさせていて、家に帰ってきた直後、一週間くらいのようだが息子による家庭内暴力はエスカレートしたようであった。逮捕された父親は「やらなければやられていた」と正当防衛を主張しているようだが、本当にそうだったのだろうか。息子が自ら一人暮らしを解消して実家に戻ってきたのは、父親を殺すためではなく自分が抱える引きこもり問題をどうにかするため父親と向き合うとした気持ちがあったのではなかったのか。小学校の運動会がうるさいので川崎市のように子どもに危害を加えると息子が脅した発言を動機としたような供述であったが、彼がうるさく思ったのはただの子どもたちの声ではなく、学校や教師たちが指導して従わせるような運動会による騒音であったはずだ。彼にとって学校の騒音がうるさかったことは用意に想像がつく。ならば学校にうるさいと一緒に文句を言いに行けばよかったし、それでなくとも元官僚の親であったのならば小学生たちに直接危害を加えるのは筋違いで、教育委員会や学校や先生を批判しなさいと咎めることくらいはできたはずだ。向き合い方がまずいのはお互い様であろう。川崎市の事件がそうであったが、刃先が無抵抗でより弱い立場にある存在へと向かうのはなぜか。その問いは、この父親自身の問題であり、息子も誇りにしていた父親の仕事でもあったはずだ。それにしても殺害動機が小学生に刃を向けようとしたからなのか、親に向けられたからなのかで定かではなく不可解である。引きこもり問題自体を無かったことにし、存在自体を消したいとでもいうような執拗さで父親はパニックに陥っていたのではないか。これらは憶測をでないが、この事件は家の体裁から他にも相談できず、引きこもり問題を無いことにしたいと長年に渡って子ども部屋を遠ざけて息子にだけに押しつけてきたことにあろう。察するに川崎市の事件を知って、小学生に危害を加えそうであったから息子を殺したのではなく、「ひきこもり」が差別されいよいよこの問題を家族として表にも出せなくなり、外に相談できず行き詰ったためではなかったか。

「母よ!殺すな」と言ったのは脳性マヒ者(以下CP者)だった横塚晃一である。1970年代、CP者の将来を案じて脳性マヒになった幼い子どもを母親が殺す事件が頻発した。そういった事件の中で、むしろ一般には母親に対する同情が集まり、母親を減刑してやってほしいとの署名活動が盛んになるが、CP者の横塚晃一や横田弘(障害者殺しの思想)が所属する青い芝の会がそれはおかしいと抗議活動をしたのだった。彼らCP者による主張は至極まっとうであったためこの運動は波紋をよぶことになる。CP者であったことが理由で母親の罪が減刑されるのであれば、CP者は殺されてもいいということにならないか、とCP者に突き付けられた刃先が意味するところは何なのかと世間に問うたのだった。当時のその答えは優生思想であり、経済成長期下に労働者になれない役立たずを隔離排除しようとする福祉政策にも及び、障害者の自立生活運動とも相まって障害者に対する人権意識や自立が議論され進んでいったのだった。自らの生が直接粗末にされていることに憤り奮起したのだ。今回、元官僚の父親に対する「父親の気持ちも分かる」などと言う同情意見を聞いていたら、この時代のCP者の母親に対する同情意見と重なってくる。3年前に相模原市で元福祉施設職員が国のためといって重度障害者を選別し大勢殺した人を英雄視するのと、この父親の殺人を正当化するのとではいったい何が違うのか私には分からない。「ひきこもり」だったら一人で死んでいってくれと向けられた刃先の意味はなんなのか。

当時のCP者と違うのは「ひきこもり」がむしろ我々の側にあるということだ。青い芝の会は自分たちはCP者であると巧みに主張した。そこから健常者社会に流布する愛と正義を批判できた。「ひきこもり」は自らを主張できない。それ自体が問題の核なのであり、私が「ひきこもり」の問題ではなく、引きこもり問題といっているのは、「ひきこもり」になりたくないと思っている人もすべてがその当事者であると主張するからである。この時代の愛と正義を批判することは自らの生を批判していくことでもある。引きこもり問題が顕在化した失われたと言われたこの20年、今は経済成長の時代ではない。経済成長していた時代は、特別何か手を加えなくとも成長していた時代だったのであって、現在は経済成長をしていないと不安だということで強制的で神経質に成長させようとして失敗している時代である。働けなどという筋違いの対立はやめ、発酵途上を腐らずに生きるしかない。テレビ芸人が「ひきこもり」と不良品なんかを関連付けたような発言があったが、人はそもそも「商品」なんかではない。この発言に品がないのでジョークだったのかもしれないが、面白くもないし不信の世界である。人を巻きぞいにして死んでいくことと対立するのは、一人で死ぬことや一人で生きていくことではない。人に迷惑をかけてでも生きていくことだ。賽は投げられた、三人寄ればの「知恵」が試される時。time is on your side.(2019.6.20)