火曜会通信(86)ー 那覇市出身者の生存:沖縄戦前後の飢餓、病、死
那覇市出身者の生存―沖縄戦前後の飢餓、病、死
謝花直美
5月15日、沖縄施政権返還の日、私は火曜会で報告をしていた。大学院時代から実に、9年ぶりのこと。ふだんは沖縄におり、毎週参加させてもらっているわけでもなく、議論を共有しているわけでもない。不作法ではないか、また私が考えている事を伝えることができるのかという、不安を抱えていた。だが、火曜会の人びとがつくる空間に「言葉をおいてみたい」、その気持ちが勝って、今回報告させてもらった。自分の中で、最近「言葉を置くこと」という表現にこだわっている。輪転機で日々、大量の言葉を送り出し続ける新聞社の中で働きながら、体験した事がきっかけだ。
ニュースは、社会的な常識と言われるものや、事象のそれまでの経過を前提として伝えられる。しかし時折、そうした前提のない、読み者の意識を揺らすような言葉が、さしはさまれていることがある。韓国出身の友人が送ってくれた「6月です」という一文で始まる文章がそうだった。沖縄では6月は、23日の慰霊の日があり、沖縄戦の死者を追悼する月である。その文章はそのことにもふれながら、韓国では「6・25戦争」と呼んでいる朝鮮戦争の記憶とともに、2016年6月に元米軍属によって沖縄の女性が殺害された事件について書いていた。沖縄の多くの人が想起しないだろう朝鮮戦争の始まった6月という記憶が呼びこまれることで、沖縄や朝鮮半島で、戦争や軍事的な暴力によって殺害された人々の命の連なりと悲しみが見えたような思いがした。
2つの地域を東アジアの「冷戦下」という手っ取り早い理解でつなげてしまうこともできる。しかし、その文章によって行われたことは、近くにいたはずの友人の中にあった、私からは見えない歴史経験が、言葉によって差し出されることだった。読み手の私は、置かれた言葉に、見ることがなかった6月の経験に戸惑い、揺さぶられ、受け止めようとして、そして、自分の何かが少しだが変わるような感じがした。書くという行為、そして読むという行為を通して、場が開かれ、認識が再編され、それを取り込みながら新しく生きなおす、そんな経験だったといえる。だからこそ「言葉をおく」という可能性にひかれているのだ。
火曜会では、「沖縄戦後、占領初期の那覇出身者の生存」というタイトルで報告させてもらった。これまで、那覇市の港まち「垣花」の人びとを中心に、那覇市出身者が沖縄戦後、沖縄島北部収容地区に足止めされ、生存をかけて移動と再移動した結果、離散したことを研究してきた。しかし、実は那覇市出身者の生存の切実さは戦中、戦前に既に始まっていたにも拘わらず、時代を区分した記述によって見えづらくなっているのではないかという疑問があった。今回の報告は、那覇市出身者の身体のあった場所をさがし、時代を貫徹しながら、考察しようという試みであった。
戦後に労働による移動を求めた人々の切実な欲求は、戦前から戦後を連続する経験として見る時に、よりその切実さを増す。なぜなら、沖縄戦直前の沖縄島北部への引揚げ計画とは、戦場となる中南部の後方として、引き揚げた者たちが自律的に食料増産を強制されることであった。農民がほとんどいない那覇市出身者にとっては、引揚げがすなわち、壊れ行く配給網の中で飢餓へ叩き込まれていくことを意味していた。しかし、那覇市民は離散した結果、分厚い地域誌が編纂されているのもかかわらず、その動向は読み取ることは難しい。そのため、那覇市出身の人びとの身体の在る場所を、食糧配給、病、収容地区の墓所という異なる位相でとらえることを試みた。配給、病、墓所は、断片的ではあるが、そこに、那覇市出身者の身体が、数値や、他所の人びとの証言記録として現れているからだ。
当日は、文章化されていないレジュメで、分かりにくかったと思うが、参加者一人ひとりの感想や質問が、私の中でぼんやりとした思考の位置取りを示してくれたように思う。歴史の主体、主人公となりにくかった那覇市出身者を、いかに登場させるのかという問いかけが、感想とともに手向けられた。高江のゲート前の座り込みのその場に、(沖縄戦時の)骨が埋まっていると聞かされた時、どう「亡霊とされてきた人びと」を考えるのか…アイヌの人びとの遺骨を拾いあげる時に、歴史がとまる、話が成立することが、その場で壊れていくような経験を、どう名付けるのか、どう語るのか…。問いかけからは、離散の結果、歴史が残りにくい那覇の人びとと考えてきた人々の経験の連続性における生存の重層的な意味を考えさせられた。生存を求めて移動し離散しただけでなく、その人々がいかに生き延びたのかいう経験へ着目することの重要性である。生き延びた人々の傍らには、モノ言わぬ死者が、山原の山中に、あるいは北部収容地区の浜にあった墓場に、骨となって残されていた。生き延びた者が、帰郷した後に、生活が落ち着いてから、遺骨を拾いに戻ったという経験を、人々は口にする。聞いていた私は、沖縄の民俗祭祀と重ねて、一つの儀式のようにしかとらえていなかったことに気付かされた。人びとの行為は、儀式の形をとってはいるが、戦争と占領によって故郷から遠く離れた場に、生き延びることができなかった家族を残したという特殊な体験である。おびただしい数の人びとがそのような経験をしているのだ。占領初期に、生活が落ち着いてから家族の収骨をするということは、生き延びた者だけでなく、死者もまた離散したままだったことを意味する。日常的に使う言葉である遺骨、収骨からこぼれている死者と生者の生存がそこにあるのではないだろうか。
土地との結びつきについても重要な問いかけをいただいた。那覇市という場所、他の地域との特性の違い、場所としての歴史、そこから破壊された地域、場所と人の関係性をどう考えているのか…。離散する那覇市出身者の主体が流動化するという見方は一方で、土地との結びつきが支配的言説ではないのか…。那覇市出身者の書かれざる体験の原因を移動と再移動の結果の離散に求めてきたために、それがもう一度固定的な土地を措定していることに対する考察は、これまで不十分だった。土地との関係性を切り離し、移動と再移動を推進する力に着目したが、戻ろうとする土地の変化、「故郷」という抽象的概念がかぶさる場合など、移動の過程でどう意識されたのかを含めて、今後考察していきたい。また離散そのものが、暴力の痕跡であり、暴力が作動しているのに、議論されておらず、沖縄戦で考え直されるべきであるという指摘もあった。時代区分を貫徹させて書くとい私の視点よりさらに以前にさかのぼるべきではという指摘からは、貫徹させたつもりが、結局は、私自身が書きやすいように歴史を区分しているだけでは反省している。
火曜会の人びとと私の間に「言葉を置いて」みて感じたことは、返された言葉によって、思わぬ地平が開かれ、そこに進んでいき、ふたたびその場にたちつくし考えるという感覚だった。自分の考察が十分でないのだから、知らない所へ旅立っていくのは、怖いことでもある。ある種の枠組みを設定しながら、考えていることの屋台骨がきしみ、ともすれば解体するかもしれない。しかし今回の議論の場で得たのは、繰り返しになるが、「置いた言葉」によって開かれていくという、そんな旅のような感覚を得た時間だったといえる。