火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(87)-「島ぐるみ闘争」の象徴を考える

 

 

「島ぐるみ闘争」の象徴を考える

岡本直美

2019年7月17日報告

 

今回の火曜会では「『島ぐるみ闘争』の象徴を考える」というタイトルで報告した。このディスカッションペーパーを作成した目的は次の3点を考えることであった。①「自」から集団を考えること、②各々のライフ・ヒストリーから経験の重なりを考えること、③態度(調整の過程)を歴史に記述すること。

 

沖縄県伊江島で展開された反米軍基地闘争(以下、伊江島土地闘争)は、沖縄戦後史における重要な出来事の一つとして認識されている。この運動は、一般的に復帰運動の前史と位置づけられ、沖縄の人びとの「自」の部分 ―自分/自分たちは何者なのか、自分/自分たちという言葉で何が表現されているのか等― を考察する際の参照項として言及される傾向にある。

戦後、米軍の統治下に置かれた沖縄で米国による恒常的な基地建設が進められた。それに伴い各地で米軍による強制的な土地収用が実行された。このような米軍統治に対する抗議運動が起こり、「島ぐるみ」の土地闘争(1956年)という全沖縄的な軍用地反対運動へと発展した。沖縄戦後史において、この「島ぐるみ闘争」は復帰運動の前史と位置づけられ、沖縄社会全体による米軍統治反対運動の起源を指す。

今回取り上げた伊江島土地闘争は「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる時期(1950年代前半)に展開し、「非暴力実力闘争」という点において、沖縄戦後史では「島ぐるみ闘争」の導火線の一つとして位置づけられている。また、晩年に反戦平和資料館をつくった阿波根昌鴻は、「沖縄のガンジー」とも呼ばれ、抵抗運動を牽引した非暴力の象徴として重視されてきた。阿波根は現在の辺野古や高江といった基地建設反対運動の拠点においても人びとの拠り所となっている。この沖縄戦後史における【阿波根昌鴻→伊江島土地闘争→「島ぐるみ闘争」→復帰/反戦平和運動】といった図式的な枠組みで人びとの生を捉えた瞬間、各々の具体的な顔や風景が見えなくなるという違和感がある。「自」が自治として解説される手前の、顔や風景が見える地点から人びとの歴史を探り、書き留める方法を模索している。

補足しておくと、報告者が見たいような人びとの「自」が、自治や統治の問題と無関係だと言いたいわけではない。むしろ、統治や軍隊の暴力を問題化するために、人びとの生の痕跡から辿ってみたいと考えた。そのような沖縄の人びとの勁さを基盤とした政治から、沖縄戦後史を問い直したいと思っている。

 

また、沖縄戦後史において、土地を守る闘いは「自」と強く結びついて語られてきた。ここで、土地を守る運動をどのように捉えれば良いのかという課題があるだろう。戦前から移民や出稼ぎ者の多い沖縄では、定住を前提に人びとの生を捉えること自体が難しい。加えて、沖縄戦や米軍統治期の基地建設等によっても、人びとは移動している。

伊江島の土地にも、住民の様々な移動経験が重ねられている。そのため、固定的に認識されがちな「土地」と、流動的な「人びとの生(移動経験)」を同時に検討することが必要となる。

 

伊江島土地闘争、および「島ぐるみ闘争」(飛躍すれば沖縄戦後史という言説も)には、あらゆる象徴的な言説が貼り付いている。しかしながら、これらの象徴的言説(用語)が、誰によって使用されるのかということについては、注意深くならなければならない。例えば、現在進行形の問題に即座に対応しなければならない「現場」や、顔の見える者同士の間で象徴的言説が使われる場合と、研究者などが事後的に「現場」から離れた場所で象徴的言説を記述するのとは、意味作用が変わってくるだろう。(もちろん、書くという時間制が確保されるからこそ、記述し意味付与できることもある)。伊江島土地闘争が興味深いのは、運動を事後的に振り返るなかで、人びとが自身の言葉で自ら(たち)の経験を意味づけようとした行為があることだ。現在進行形のたたかいを進めると同時に、自らの経験を言葉として置く作業をしたのだ。

 

火曜会の議論では、報告者にとって論文を書くという作業は、これまで貼り付けられた意味を剥がしていくような作業であるとの指摘があった。また、付与された意味を剥がしながら、簡単に次の意味を与えないということであるとも。

このような意味を剥がしていく作業は、決して一人ではできない。剥がす作業のためには、付与された意味を知らなければならないし、意味付与される状況(言説空間の状況、出来事のあった状況)を知らなければならない。そして、剥がしたところで、それが何なのかを問わなければならない。また、既存の意味を剥がすだけでも手一杯なのに、「○○が足りない」という問いかけにも応えていかなければならない。ただ、逆説的にいえば、「〇〇が足りない」との問いかけから、“なぜ〇〇が足りていれば状況を説明できたことになるのか”を私が考える契機も生まれるだろう。

既存の知的枠組みに依存することなく、諸問題を解説する言説の前提自体を丁寧に説明することから議論を始める場としての火曜会だから、今回のような問題関心を提起することができたと思う。長時間の議論を共にしてくれたことに感謝して。