火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(90)ー「史実」を「正しく」伝えることの難しさ

 

「史実」を「正しく」伝えることの難しさ(2019年7月10日報告)

2019/09/03

猪股祐介

 

まずディスカッション・ペーパー(以下DP)提出の遅れなど、みなさまにご迷惑お掛けしたにも拘わらず、当日は冨山さんはじめ総勢8名で、3時間半に及ぶ「議論」を展開できたことは、望外の喜びであり、ここにまずお詫びと感謝の意を表したい。

そのうえで、フロアから「人間関係が複雑であり、その説明がないため、理解しづらくて、議論に入っていけない」という意見があった。これに対しては、仮名A, B, C以下の属性を表した表を作成すべきであった。また、私の最初のみなさんのリプライへの応答が長過ぎてしまったために、複数名の意見が入り乱れる議論の時間がとれなかったことも反省しなければならない。火曜会においては、報告者は、最低限の意見を述べ、他の参加者の声にじっと耳を傾けたほうがいいのではないかと、私は思っている。

こうした今回の火曜会の「議論の場」のあり方をめぐる問題群は、そのまま「史実」をいかに「正しく」伝えるかにつながっていると、私はいま書きながら、<事後的に>気付いている。たぶんこのようなことは、議論の渦中にある(あるいは「ある」と思っている)「当事者」にはなかなか気付きづらいのだろう。私は、他の参加者7名の質問全てに回答しようとして、「能弁に」話をつなげ続けた。Xについて語っていると思えば、Yについて語っていると思った参加者も、決して冨山さんだけではないはずだ。たとえば、私のなかでは、XとYはAさんの問1とBさんの問3とつながっていると、勝手に頭のなかで「物語」を「構築」しているのだ。そうした渦中にあった私は、「客我」(主我の反義語で、他者に映っている自己。いわば「鏡に映った自己」)を見つめる「主我」(他我を認識する自己)を欠き、知らず知らずのうちに、話は長くなり、熱くなり(あるいは空回りし)、そしてDP上では「べき」など強い語調や、私見なのか、「当事者」の意見なのか、主語が分からない物語を、「自動機械」(宮台真司)のように、火曜会という「議論の場」へとたれ流していたのではないだろうか。折角の「議論の場」を空費してしまったのではないかと、いまの私は悔やんでいる。

資料Xについては、公開すべきだ(それこそ「刊行されたデータは、万人に公開されるべきだ」という「べき」論)から、「『当事者』が燃やす気持ちも分かる」など多様な意見が噴出した。私はDPでは、資料Xは公開を「限定すべき」だと書いたつもりであったが、これについても、私にそれを読みこなすだけの潜在的能力(capability)があったのか、あるいはいまあるのか、これからあるようになるのか、正直分からない。ただ一つ、資料Xは未来のいつか、それを読みこなす能力をもつものが顕れるまで、「正しく」「伝えていく」必要がある可能性である資料なのではないだろうか。「この資料は『当事者』の気持ちを逆撫でするから燃やしてしまえ」では焚書坑儒とかわりがない。いやかわりがないのだろうか。そうした「次代につないでいく」必要がある資料なのか、それでもまた傷つく被害者が出てこないか、そうした苦悩のなかに、「史実」を「正しく」伝えることの難しさがあると、本稿を書いている私は思っている。

本稿を読まれた方には、ぜひ火曜会という「議論の場」に参加してほしい(私も諸事に巻き込まれて参加できていないが)。同様に、ある「満洲開拓団」の「縁起碑」に関する碑文の、何が「正しく」、何が「正しくない」「史実」(これを私は<史料>と<現実>がないまぜになった意味で用いたつもりであった)を議論する場に、一人でも多くの「当事者」が集まることを祈念して、擱筆したい。