火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(92)ー街をみる・「基地の街」コザ

 

 

木谷彰宏「街をみる−「基地の街」コザ〜戦後沖縄が辿ってきた〈教室の風景〉に出会いなおす〜」(2019/11/6開催)

 

増渕あさ子

 

 

 

木谷彰宏さんの文章とその後のディスカッションの場に居合わせたことは、私にとって不思議な、それまでに私自身が持っていた議論の前提のようなものを少しずらされる体験となった。一つには、木谷さんが提示した二つの(というふうに分けて考えることはできないのだけれども)問題系−コザの「土地解放」〜「基地の街」の形成、発展をどう考えるかという問題と、「子供たち」の「作文」は前者について何を語っているのか、そこから私たちは何を聞き遂げることができるのかという問題−を切り離すことのできないものとして思考する場となったからである。そこからはまず「なぜ作文なのか」という問いが出され、その問いは「作文は他の文体・文章と何が異なるのか」という新たな問いを導いていった。沖縄の小中学生に対する作文指導が、沖縄教職員組合の下で行われ、いわゆる「本土復帰運動」と不可分の関係性を持つに至ったという議論はこれまでも、複数の研究者によってされてきた。確かに、作文コンクールで受賞するような作品は、教員や親による細かい指導、子供自身による自己検閲を幾重にも通過してきているということには、十分留意する必要があるだろう。しかし、子供はそこまで無垢で受動的な存在なのだろうか。そもそも誰が「子供」なのか。子供が大人たちのイデオロギーをそのままに反映していると見る視座こそが、「子供」とされた存在が発した言葉の可能性・意味の余剰を無効化させてきたのではないか。基地の街コザの追いきれない「発展」を、「作文」という時期限定の、しかも自発的ではなく、授業の一環として「書かされる」状況で文字化された文章において読み解くことは、これまで見落とされてきた風景の変化に気付き、もう一度、書き留める作業につながるのではないか。それがおそらく、木谷さんにとって「沖縄の歴史を表現する」あるいは「沖縄の戦後を生きてきた人々の姿や街の情景がみえるような歴史の叙述を目指す」ことなのだろう。

このことに関連して、火曜会のあの場が、「子供の作文」について思考しようとすればするほど、肝心の「子供たち」の文章そのものから離れて、教育制度や当時コザが置かれていた社会状況、地域社会に関する議論になってしまうのが、とても印象的だった。私自身、後者の議論をより「しやすい」と思い、そこに関する語彙はたくさん出てくるのに対し、「子供」の文章そのものはどのように読めばいいのかわからない、というのが最初に抱いた正直な感想だった。例えば、「パンパンやハーニ達に物を売りつけている姿をみせても平気でいる」こどもたちを見て「いやな感じを覚えた」という文章に、「基地の街の現実にさらされる子供」を読み込むことは極めて容易い。しかしそれで、本当にこの作文を「読んだ」ことになるのだろうか。子供が、時に意味もわからず目撃したことを書きとどめた文章について、どうしたら、勝手な意味を過剰に付与したり解釈することなく、聴くことができるのだろう。これは、医療者や福祉従事者が書き綴った記録から沖縄「戦後」の歴史を考えようとしている私自身が常に抱いている問いでもある。

最後に、何人かから指摘があり、私自身、作文を読む中で気になったのは「子供の作文」に書き込まれた(もしくは書き込まれることもなかった)別の子供の存在だった。外国人からチューインガムやチョコレートを喜びながらもらっている子供たちは、作文を書いている子供の観察対象になっても、作文の主体にはならない。あるいは長期欠席児童など、「教室の風景」の一部にすらなれないでいた子供達の存在をどう作文から読み取ることができるのか。

木谷さんの文章から広がった今回の火曜会は、急激に変化していく社会の変化を切り取った、いわば「風景の保管庫」として作文を読み解く−そのような試みの場になったように思う。コザに住みながら、沖縄市史編集という、まさに「歴史を表現する」現場に立ち続けられている木谷さんだからこそ聴くことのできる作文の言葉があると強く感じた。次回の報告もとても楽しみにしています。