火曜会通信(95)ー家事と数を語ることの難しさ
家事と数を語ることの難しさ——「農家の家事・育児労働をどう研究するか」(岩島史さん報告/2020年1月22日)
西川和樹
「家事労働」・「育児労働」という主題について考えるときの、この言葉から連想される諸々のイメージ——身体、精神の疲弊を伴う際限のない営み、しかもその責任は未だ社会的に偏ったかたちで押し付けられている、しかしその一方で、このささやかな日々の営みに喜びを見いだす人もいて、これに関わる知識を媒介した専門性や人脈も作り上げられる——、容易には重ならず様々な方向に広がるイメージを前にしたとき、どちらかと言えば後者の線を導きの糸として、そして「家事」のなかでも主に栄養や料理の問題に強調点を置きながら、その分野の専門知識や人脈を土台にして、この種の営みを「労働」とは別のものに転化させるべく活動を行った人びとに焦点を当て考察を進めてきた自分にとって、「農家の家事・育児労働をどう研究するか」と題された今回の岩島さんの報告は、この風呂敷を精一杯広げたような題名さながら、家事、育児、あるいは生活を主題にして研究を行うということは、そもそもどのようなことなのか、という大きな問いについて改めて考えさせられる機会になりました。
このように当然のごとく使われてきた大文字の言葉や概念を問い直そうという姿勢は、例えば、報告文のなかでそれまで「家事・育児労働」という語句を用いて記述を進めてきた岩島さんが、「おわりに」に至って「家事・育児経験」というべきものだったのかもしれないと立ち止まることで、文章の結末を飛び越えて、議論の場へと投げ返されたわけですが、実際、当日の議論の場では、報告文の基底をなす「農村女性たちの経験にもとづいて論じる」ことへの共感が寄せられつつ、「家事労働には(都市の)生活が前提とされているのではないか」、「農村にはそれぞれの地域性や歴史性がある」など、「農村」という場所についてより精緻に考えてくための視点が提出され、「労働という語句の使用には政治的な効果が生まれる」、「家事労働には否定的に捉えてしまう方向性がある」など「労働」という語句の用法が検討され、さらに「生活と仕事は分けられない」、「労働(力)の範疇に収まりきらないものをいかに記述するか」など、「家事労働」を研究として扱う際の困難さが改めて浮かび上がり、ここに至ってまた振り出しに戻るという徒労感がなくはないものの、いくつもの初発の問いとして、より大きな視点から報告文で用いられた種々の語句が検討されたのでした。
こうして大きな視座に思いを及ばせつつも、具体的なところでは丸岡秀子や帝国農会、戦後の生活改善普及事業など、学知や実践において農村に「生活」を見出した種々の取り組みの系譜も記されていて、特に日本女子大学家政学部が1952年に農家生活研究所を設置したことは、ここに農村生活と家政学のあいだに生じた一つの結節点をみるようで興味深く受け取りました。農村における生活改善の取り組みについては、戦前より様々な方向より行われていたことが推し量られる一方で、殊に戦後、農林省の主導した生活改善普及事業に家政学の要素が取り入れられ、更にいち早く家政学部の設置を達成した日本女子大学が農村の生活に照準を合わせたとなると、家政学と農村のこの出会い頭に、どのようなことが生じたのだろうかと、考えを深めてみたくなりました。戦前の恐慌によって疲弊した農村部に対して、当時の左翼運動は有効な解決策を提出することができず、むしろ全体主義的な国家体制が農村の支持を勝ち得ていったという時代背景が議論のなかで指摘されましたが、直観的に述べるならば、戦後の家政学と農村の出会いも、この指摘を軸にして考えることができるのかもしれません。
最後に、報告者の岩島さんが議論の場で「数値化されたものを手放すことなく考えていきたい」という趣旨のことを述べていたのが印象に残っています(正確な言い回しを失念してしまい、微妙なニュアンスが違っているかもしれませんが)。生活時間の調査では、対象者の生きる時間が「作業」や「家事」、「余暇」などに区切られ、それぞれに対して数値が与えられる。また家政学の調査研究においても、ある主題がいくつもの項目に細分化され、その数値を操作することで種々の合理化が目指される。自分などは、それらの数値を前にしてたじろいでしまうことが往々にしてあるのですが、しかし考えてみると、自分の研究対象でもある料理やレシピは、ある部分では食材の組成や調理という動作を数値化することによって成り立っている。手元にある料理書には(『上田フサのおそうざい手ほどき』)、「計る」ことが述べられた頁があるが、そこには敢えて「計れるもの」と「計りにくいもの」の違いが説明されていて、前者(=正しい計量)をおいしい味作りの土台としながらも、後者を説明する際には「シャッキリゆでる」、「トロリと練る」、「からりと揚げる」などの表現が用いられるなど、日々、数値と向き合う料理家であるからこそ、数値の及ばない部分まで含み込もうという意図が垣間見える。出された数値を立体的に考えることは時に困難だとしても、その数値を弾きだした側、その調査の対象とされた側、それを読み解く側の置かれた時代状況など、いくつもの分節化を経ながら数と向き合うことの重要性、さらにその数値を土台にして生活の合理化が図られる際には、誰のための、何のための合理化であるのか、という問いを手放すことなく考えることの重要性に気付かされました。