火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会のためにー幻視者の言葉の在処(冨山一郎)

幻視者の言葉の在処

2015年10月5日

冨山一郎

 

 

わたしの育った土地には、「じねんと」ということばがある。「じねんと」するとか、「じねんと」やるといった風に用いている。漢字で書くなら「自然と」となるが、「しぜんと」ということば、またそれとほぼ同じで「ひとりでに」とはやや異なった意味合いがある。この「じねんと」ということばには、それなりに意思をもって、必要に迫られつつもゆったりとことをなすことによって、必然的に何かのものが生み出されるはずだという、楽観的な期待が籠められていると思われる。本書はこのような意味で「じねんと」生まれてきたものである。(川村邦光『幻視する近代空間』青弓社、1990年、213頁)

 

 

二年前にクロアチアを旅したことがある。ちょうど同国がユーロ圏に包摂された時だったので、行く先々でそれを祝う旗が路上に掲げられていた。その目玉は、観光産業である。だが行く先々の美しい風景を形作る建物には、しかし、殺戮の跡がそこかしこに隠されていた。吸い込まれるような青い海を見下ろす高台に向かうロープウェイの終着点の建物は、激しい空爆を受けており、いまだにコンクリートの残骸が放置されていた。またバスから見える家並みを凝視すると、壁に刻まれた無数の弾痕が目に飛び込んでくるのだ。それは、全く普通の住居の壁である。ザグレブ近郊の世界的な観光地であるプリトヴィツェの森には、最近まで地雷が埋められていたそうだ。

それは、ユーゴスラビア崩壊の中で生じたすさまじい殺戮の痕跡である。ゴルヴァチョフのペレストロイカと共に始まった冷戦の終結は、単なる民主化ではなく、また一部の人々が夢想した共産主義の蘇生でもなく、またその後に語られるグローバリズムということで片付けられることでもなかった。それは隣人と隣人が民族に分かれて殺し合う殺戮として、登場したのである。「民族浄化」という恐ろしい言葉も、繰り返し登場した。そしてこうした事態は、ユーゴだけのことではない。たとえば南アジアではスリランカにおけるタミル人とシンハラ人の殺戮がインドも巻き込んで拡大していた。

1990年の年末に、私が最初の単著『近代日本社会と「沖縄人」』(日本経済評論社)を出版した時、この本が『朝日ジャーナル』の臨時増刊(1991年10月)で、今民族を考える本として紹介されたことである。この増刊号の特集の表題は、「ソ連の急展開と民族の激流」であった。また私の本を推薦していたのは、初めて名前を聞く東欧研究者だった。そしてこのある意味で予期せぬ反響の中、自分の議論が同時代に拡大しつつあったいわゆる民族問題とどのように関わるのかを、出版と同時に考え始めたのである。どのように読まれたのだろうか。私の言葉は、どのような文脈で意味を獲得したのだろうか。

私の議論は、民族解放闘争の中で繰り返し提出された「階級か民族か」という問いへの応答でもあった。すなわち民族か階級かではなく、民族的な領域にこそプロレタリア化の中で形成された経験を議論しなければならないと考えたのである。それはまた、沖縄闘争における「沖縄人プロレタリアート」(松島朝義)、あるいはグラムシの「南部問題論」に登場する「プロレタリア民族」という言葉が抱え込んだ領域を、開示することでもあった。またこの作業においては、私にとって何よりもフランツ・ファノンが導きの糸だったのである。したがってまたそれは、ソ連邦解体の中で浮上する民族主義と民主化に、階級闘争の継続を見出そうとすることと無関係ではないだろう。刊行された1990年においては、そのように読まれたのかもしれない。

いまも、プロレタリア化と民族を分割せずに考えなければならないと考えている。しかし自分の本があの1990年代に入って次第に拡大していった殺戮の中で読まれたということを考えるとき、まだ議論が足りないということを強く感じていた。「民族浄化」という言葉に渡り合える議論が、出来ているとは到底思えなかったのである。共同体が行使する暴力をどう考えるのか、あるいは「民族浄化」と表現された恐ろしい事態とどう対峙するのか。当時雑誌に掲載されたある人類学者の論文には、タミル人の家族を車に閉じ込め、火を放ち、燃え盛る炎を前にして、小躍りをするシンハラ人の少年の笑顔が映し出されていた。屈託のない笑顔である。この笑顔を前にして何を語ればよいのか。差別といえば差別である。あるいは生贄にかかわる儀礼的な暴力という人もいるだろう。しかしそれは差別意識というより、意識の手前で作動している問答無用の暴力のように思える。また儀礼というには機構として組織化されている。冷戦が終わりを告げる中で顕在化し始めた暴力を前にして、こうした問いをそれぞれの場で抱え込んでいったのだろう。それは民族にプロレタリア化の経験の発露を考えた私にとっても、同様であった。

こうした問いは、表象分析への圧倒的な物足りなさという感触を伴いながら、同時期ひそかに共有されていったように思う。民族に関しては、当時サイードのオリエンタリズム批判に関わる議論もあり、民族的自己を他者表象の問題として議論することも広がっていた。ナショナルな自己表象は、他者へのネガティブな表象と重なっているのである。しかし他者表象を、あのすさまじい殺戮と結びつけるのには無理があると当初から感じていた。それはいくら生活の中の差別意識と言い換えても、同様であった。

そこにはあの理不尽で問答無用の暴力が見えないのだ。表象の暴力という言い方もあったが、それは私にとってはある種のごまかしのようにも感じていた。暴力は表象の淵あるいは外部にあるのだ。またサイードが1994年に刊行したオリエンタリズムへの抵抗を正面から扱ったCulture and Imperialism(『文化と帝国主義』)では、議論の軸は表象というより抵抗の暴力に移動している。またそこではファノンの議論が前面に押し出されている。抵抗とは民族解放闘争と自治の獲得なのである。それを読んだ時も、やはりそうなのだと納得した記憶がある。同時期にパレスチナでは、第一次インティファーダが暫定自治政府に結実しようとしていた。

私の本と同じ1990年に刊行された川村さんの『幻視する近代空間』に出会ったのは、こうした民族をめぐる世界の光景と自分自身の本が絡まりあう時だった。今改めて久々に川村さんの本を開き、自分がこの本に出会ったときの状況を思い出したのである。確か『朝日ジャーナル』に、まだ出会ったことがない川村邦光『幻視する近代空間』の書評を発見し、すぐに購入し、一気に読んだのである。それは私が自分の本を刊行する直前の1990年だったように記憶している。読んだ直後に古くからの友人である長原豊に同書がいかに面白かったか語ったところ、彼が深く同意したのを覚えている。私も彼も、異なる形ではあるが殺戮を現前にして、自己/他者をめぐる表象分析への不満を持ち続けていたのかもしれない。いずれにしても私は、「ソ連の急展開と民族の激流」の中でこの川村さんの本を読んだのである。いいかえれば、自分がこうした同時代的状況に巻き込まれながらいだきだした民族に関わる暴力の問題の中で、『幻視する近代空間』を読んだということだ。今、この読みを思い出しながら、同書について記してみようと思う。

この川村さんのこの本は、脳病やトラホーム、あるいは狐憑きや座敷牢といった個別のテーマにかかわる民俗学の研究という形では、語ることはできない。そのような理解では、同書がその後の本に比べて、なぜ読みにくいのか、あるいはぎくしゃくした文体になっているのかが理解できないだろう。あえていえば同書は、近代という前提を問うものだ。それが、書き手自身の住まう世界にかかわる問いであり、学知そして言葉にするという行為自体が、近代という土台の上に成立している以上、この近代という前提への問いは、崩壊感を伴う遂行性を帯びざるを得なくなる。したがって読みにくいのは、たんなる文体や読みにくさの問題ではなく、まさしく同書が前提を問う作業としてあるからに他ならない。他の川村さんの作品がそうではないといおうとしているのではない。だがやはり同書が行儀のいい学的テーマにかかわる研究書として参照されるたびに、私はそうは読めなかったという感想をいつも持っていた。

『幻視する近代空間』は、近代において抱え込まれ、常態として作動し続けている暴力についての本だ。同書において凝視されているのは、存在論的な暴力の次元である。民族ということもそこから考えなければならない。その暴力は、合理的説明が停止してもなお、作動し続ける力として存在し、それが近代において再構成され、とんでもない殺戮として顔を出すのだ。ある意味で国家はこの無法で問答無用の暴力を一挙に手に入れるところに成立するのかもしれない。とにかく同時代的状況の中で私は、このような暴力にかかわる問いとして川村さんの本を読んだ。小躍りをするシンハラ人の少年とともにこの本はある。そして1990年という同時代性の中で私が読んだ川村さんのこの本の重要性は、今日も継続しているように思える。

たとえば同書では、文明開化の掛け声の中で起きた血税反対一揆などの新制反対一揆において、異人への暴力が議論されている。そこで言及されている竹やりなどで武装した被差別部落への襲撃事件がいかに凄まじいものであったかについては、やはり同じころ刊行された今西一さんの『近代日本の差別と村落』(雄山閣 1993年)においてより明らかになる。そして私がこの今西さんの本を書評することになったとき(『史林』77巻2号、1994年)、この村という共同体において遂行された被差別部落に対する虐殺を「旧慣維持」で説明した今西さんに対して、疑問が残った。そのような疑問は、歴史学的な課題というより、やはり世界中で蔓延した「民族の激流」という同時代性によるものだった。そして今西さんの本の書評において、襲撃事件のこの暴力に最も肉薄しているものとして、川村さんの本を引いたのである。

『幻視する近代空間』において川村さんは、この共同体によって行使される暴力を、旧慣というよりも、異人に対する「恐怖の心性」が近代の中で再組織化されていくと考えている。そしてまさしくこの、虐殺を引き起こす再組織化された恐怖が、「エスノセントリズムに満ちあふれた侵略主義のナショナリズム」となるのだ(同書36頁)。今こうした「恐怖の心性」についてこれ以上論じることはしないが、すくなくともそれは小躍りする少年に戸惑っていた私にとって、とても腑に落ちるものだった。またこうした川村さんの議論は、やはり同時期に田中雅一さんがスリランカでのタミル人とシンハラ人のジェノサイドを宗教の世俗化と儀礼的暴力の変容でとらえようとしてこととも、通じるものがあった(田中雅一「儀礼的暴力の変容ー供養からジェノサイドへの道程」『情況』4巻1号、1993年)。いずれにしてもユーゴスラビア崩壊と「民族浄化」の登場の中で、こうした暴力を過去にも他者にも振り分けることなく考える本として、川村さんの本があったのだ。少なくとも私はそうだ。

そこでは異人は、被差別者というよりも病原体となり、消し去ることが当然の対象となる。病原体は駆除しなければならず、病は治さなければならない。治らない患者は治療の名において問答無用で拘禁されるのだ。それは人と人の差異という論点をどうしても含意してしまう差別という言葉よりも、存在自体を自分たちの世界から消し去りながら、かつ消し去っていることを否認していくような暴力である。ある共同体が、その異人に対して存在すること自体を許さず、それを抹殺しながら同時に抹殺したことを忘却する。近代とはそんな共同性を帯びるのだ。まるで病原体をやっつけるように、毒虫をつぶしてしまうように異人たちを消去する。そこには何の記憶も感情も残らないかもしれない。

同書の「あとがき」に、柳田國男が述べた「山中に入る」ということが登場する。それは「群れと共に居られぬ」者たちが、一切の関係性を断ち切り、姿を隠すことだ。近代の共同性がはらむ暴力に対しては、存在を消すしかないのだ。黒田喜夫の「あんにや考」を彷彿させるこの消滅は、しかし離脱であり飛躍であるのかもしれない。確かに「山中に入る」は暴力の結果であり、「恐怖の心性」が組織化され精神医療の対象としてのみ生存が許される存在にかかわることなのだが、川村さんにはそこに「奥深い生存の根底を示唆しているように思われる」と記す。あえていえば単に追い込まれるのではなく、自ら「山中に入る」のだ。そして川村さんは、そこに別の生を確保しようとしているように思える。近代空間に住まう者たちを抹殺する暴力の先端に、別の生の始まりを幻視するのだ。

この部分を読んだとき、大きく頷いた記憶がある。倫理や正義をこえたところで存在を全面的に肯定する。ここに川村さんの真髄がある。それは正しさや理屈ではないのだ。またこの近代を幻視する川村さんを突き動かしているのは、学問分野に区分けされたペライ研究史や研究課題などではない。また単なる個人的な興味ということでもない。あえていえばそれは、理屈にならない理屈を抱え込もうとする意志であり、きっと川村さんには見えないものが見えるのだろう。本書は「じねんと」生まれてきたと川村さんは記している。それは受動性と能動性が混在した「それなりの意志」だという。そしてそこには「奥深い生存の根底」に憑かれ、そしてそれに突き動かされている川村さんがいるのだろう。あるいはそれは抹殺された「死者との共存―共闘」(同書204頁)といってもいいのかもしれない。

またそれはひょっとしたら後の「弔い論」につながるのかもしれないと、今考えている。改めてよんで気がついたのだが、「あとがき」には「山中に入る」話とともに「数年前」に起きた秋田県沖の地震の話が登場する。津波にさらわれた子どもたちの魂を呼び寄せようとして母が行ったお椀を割る行為に対して、川村さんは「山中に入る」と同様に、「奥深い生存の根底にある記憶」と述べている。子供は消滅しておらず、山に入っているのであり、見えないがそこには「奥深い生存の根底」があるのだ。この確信は、世界を描くことへの自信とでもいうべきか。

いずれにしても『幻視する近代空間』は、民俗学のいくつかの研究テーマを扱った本ではない。理不尽な暴力を過去にも他者にも振り分けることなく、その内部から別の生を引き出すこと。これが同書のなそうとしたことであり、私にとってそれは、まさに本書が刊行された1990年にかかわることであると同時に、今問われていることでもあるのだ。「テロリスト」の死を毎日数え上げることが常態になっている、今の問題なのだ。

そして、かかる幻視の中で描き直される「奥深い生存の根底」を浮かび上がらす記述には、まずもって学という制度自体への問いが包含されている。最初にも述べたことだが、この点を読みとばすなら、同書はたしかに研究書になるだろう。だが私にとって同書はそんなものではない。また憑かれ突き動かされている川村さんも、研究なる制度に決して安住などしてはいない。この本にはフーコーなどしばしば理論と分類されるような引用が登場する。だがそこには、理論と実証などという安定的でおめでたい棲み分けは、ない。

たとえば、譫語を病者の言葉ではなく聞き取るということはいかにして可能なのか。川村さんはそこで、「これまでとは異なった知覚が必要なのである」と述べる(同書64頁)。この知覚は、お行儀よく準備などされてはいない。そしてそれでもつかみ取ろうとする時、理論や事実にかかわるドキュメントや小説、あるいは現場やフィールドといった分類を越えて、すべての言葉の海に、川村さんは新たな知覚を求めて漕ぎ出しているように思える。だからこそ「じねんと」すすむのだ。時には理論的に、時には死者の言葉を聞き取るイタコのように。

理不尽な暴力を正しさにおいて応答することにおいては、「奥深い生存の根底」も「これまでとは異なった知覚」も問題にならないだろう。それどころか、正しさにおいて語る瞬間に消し去られるといってもよい。「一方的な説教と売り出し的叫び」(中井正一『土曜日』1936年)が蔓延する中で、この『幻視する近代空間』が確保し続ける言葉の在処は、1990年も今も、極めて重要である。それは、いまだ民族と呼ばれる共同性をどう開くのかということに拘泥している私にとっても同様だ。