火曜会第33期の予定

すでに終わりました。

 

火曜会第33期

2019年秋

同志社大学烏丸キャンパス志高館SK201

15時より

2019年10月2日

冨山一郎

 

こんな21世紀を迎えるために、誰も生き、働いてきたのではなかったはずです。…誰かに作ってもらってその枠に入れるのを待つのではなく、ありのままの私たちから出発して、自分たちに合ったやり方で自分たちなりの自前の社会システムを作り出し、人と人の関係を作り出していけばいい、それをとなりの仲間と開始し、そのまたとなりへ、もうひとつとなりへ……未来社会を「私とあなた」から作り出せばいいのだと思います。(浴田由紀子「最終意見陳述」2002年3月11日)

 

Ⅰ場の論理ということ

先にメーリングリストで配布した「場の論理のために」という文章でつたえたかったことは、思考するということ、議論するということ、文章を書くということ、それを読んでまた思考することといったいわゆる普通に研究会とよばれる場で行われていることにおいて、「なにを」ということに加えて、いやそれ以上に「いかに」ということが重要になるということでした。またそれを思想の問題として考える事ができるということです。「何を考えるのかではなく、いかに考えるのかが重要なのであり、そのいかにという問いの中でなされる行為が、集団性を帯びることになる。したがって思想とは、新たな集団創出に向けての動態であり試みなのだ。研究行為の思想的意味をこうした集団創出の問題として考えてみたい」のです。私は火曜会の試みにも、こうした「集団創出」という「思想的意味」を重ねています。そしてこの「いかに」ということが論理ということであり、その論理は、全体を統括する理論ではなく、内省を継続し続けるある種の態度、久野収の言葉を借りれば、「歴史過程そのものの自省」としてあると思います。以下、こうした論理、すなわち「いかに」ということにかかわって、述べていきたいと思います。

 

Ⅱ主張が問いになるということー聴くということの重要性

こうした内省的な態度を考えるとき最も重要な行為は、聴く、あるいは読むということではないかと思っています。さきの文書でも言及した藤田省三は、いかなる言葉においてもその底流に経験があると述べました。しかしその経験は言葉の根拠としてあるのではありません。ここが経験という言葉を用いる際の重要なところです。それは言葉においては到底表現できない、あるいは丸め込むことのできない葛藤と矛盾、時には激しい感情の源泉なのです。そして言葉を受け止めることはこうした経験を聴く、あるいは読むという行為において経験は再組織化されていく。それは言葉が、聴く者や読む者を巻き込みながら生まれる関係性や集団性に向けて動き出すことなのです。

それはいわゆる言葉を評価するという研究会にありがちなこととは少し違います。その場でなされた主張を、受け取ったものが評価し優劣をつけていくのではなく、その底流にある経験を共に再組織化していく。そしてこのプロセスにおいて聞き手や読み手の同じく経験の領域が浮かび上がっていくように思います。その浮かび上がってくる経験もやはりどうしていいかわからない葛藤としてあるのでしょう。あらゆる主張は問いだと中井正一は言いましたが、それはこうした言葉を受け止めるということにかかわる問題なのでしょう。他者の言葉を聴くことなく評価のファイルに閉じ込める、あるいは勝手に要約をして自説を展開するのではなく、問いとして開いていくという感じでしょうか。

さきに引用した浴田さんは、数日前の場で「他者を理解することは楽しい」と述べられました。人の話を聴くことなく自説を披露したり、自分の経験をあたかも揺るがない根拠のようにして主張するのではなく、ます聴くということ、読むということ、理解するということ。それは引用ということともかかわるでしょう。他者の言葉を引用し評価を下すのではなく、引用することにおいて引用者が、引用されたものとともに新たな関係性や集団性に足を踏み入れていくということ。そこでは主張はいつも問いとしてあります。議論とはこうした作業が絡まり合いながら広がっていくことのように思います。その広がりは言葉を大切する関係性、相手の発言に耳を傾けリスペクトする関係性ともいえるでしょう。このリスペクトがないところでなされる一方的な語りは、生まれるべき関係や場をあらかじめ排除する暴力的な統治として作動することになるでしょう。

F・ジャコブという科学者は、自らの研究生活を顧みながら、「大切なのは問いであり、その問をどう表現するのか」だと述べていますが(『内なる肖像』)、そこには表現された問いを聴く者が想定されています。ジャコブは問いを一人で提示しようとしているように読めますが、あえて言えば問いは聞く者において作られるのです。こうした問いがふりつもっていくことは、こうした聴く者たちが広がっていくことでもあるでしょう。それをジャコブは「私は未来に生きていた」と述べています。これはやはり、楽しくもあるでしょう。

 

Ⅱ言葉の秩序と欲望

ところで、言葉がやりとりされる場が、ある種の空気を帯びだすことがあります。それは上記の楽しいということとも関係しますが、その空気は楽しいということだけでありません。経験が再組織化されず、隠蔽され、所有され、他者化される中で形作られる言葉たちが作り上げる空気。そこには経験に含みこまれていた感情や欲望が新たな関係性にむかうのではなく、固化し重く沈殿していくような感触があります。

このあいだ亡くなった加納実紀代さんは、1985年に、当時研究領域を占めるようになってきたフェミニズムが「用語の概念規定があいまいだ」と言って批判し合い、「マルクスの文言をあれこれと引用し」、〇〇フェミニズムということを乱発していくことにふれ、かつて「男たちの前で黙り込んだのと同じ状況が、いま再現されている」と述べています。それは「とりみだしながら」も議論の場所を作り上げてきた加納さんの「女たちの現在(いま)を問う会」といった活動と今の研究活動がずれだしてきたことへの警告なのでしょう。「議論のすすめ方やことばづかいに、私はどうしても60年代の<男>を嗅いでしまう」。これは加納さんが「社縁社会からの総撤退」を主張した文章の冒頭に出てくるのですが、考えてみればこの主張を「論」として整理している今の研究状況への批判でもあるのでしょう。論じているのではなく「とりみだしながら」加納さんは主張しているのです。それは問いでもあるでしょう。

ここにも「いかに」ということにかかわる難題があります。発話者としての承認構造には、どこかで男らしさにもかかわり、そのような発話者の言葉は主張として受けとめられ、評価され、序列化され、権威化されるという構造が、まずは歴然と存在するのです。議論による関係性ということも、こうした構造が姿を変えてそこかしことに登場することになるかもしれません。また人の話を聴くことが喪失されていく状況も、そこに深く関わるでしょう。そのような「俺俺」の臭いを嗅いでしまう嗅覚を、私ももっています。それは新しく始まっているようで、元も戻っていることであり、また既存の枠をあたかも乗り越えているという表層的な姿をとるがゆえに、かえって厄介でしょう。

場の空気はまずはこうした男らしさや、マッチョさ、一方的な語り、自説を競い合い、「オイデプス構造」において作られているのであり、そこに収まらない欲望とそれにからむ発話は、話していても話したとはみなされず、埋葬されるのでしょう。生きたまま埋められたアンティゴネーのように(バトラー『アンティゴネーの主張』)。この難題を難題としてしっかりと確認しておきたいと思います。

 

Ⅲ火曜会の構造

火曜会の場は、三重の構造になっています。まずメーリングリストにおいて表現される場ですが、これ火曜会で議論をした経験を持つ人々において構成されています。人数は100名を超え、また東アジアや北米だけではなく、ヨーロッパ、北欧、北アフリカにまでひろがっています。こうした広がりの中で、定期的な火曜会が開かれています。またそうであるがゆえに、時々、「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」(西川さんの「火曜会通信」89号http://doshisha-aor.net/place/619/)として、登場する人々がいるのです。この人たちも含めて三重構造(間の旅人は構造というより流動系ですが)になっている。

また火曜会は「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つがあります。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしています。また今期でしたら定例研究会(第33期)としたいと思います。定例研究会、通称「火曜会」です。二つ目は、後でふれる「火曜会通信」についてです。この通信はウェブペーパーとしての「研究会報告」としても使えるようにしたいと思います。定例研究会報告「火曜会通信」。もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。第三に、「ディスカッション・ペーパー」(これについてもあとでふれます)ですが、この間、ディスカッション・ペーパーが学術雑誌などになる、あるいは学術雑誌に向けてのペーパーがディスカッション・ペーパーとして出されるということがありました。火曜会は火曜会通信以外に定期刊行物はもっていません。そういうことを考えてもいいかもしれないとも思いますが、一杯いろんな刊行物がある中にさらに一つ作ることより、既存のメディア環境の背後に張り付くということを考えてみたいと思います。まずは既存のメディアに掲載された場合には、火曜会で議論したことをどこかで明示することを提案します。

 

Ⅱ「いかにして」

いま事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を一人一人の言葉が担っているような感触もあります。すべての参加者の「私」が出発点になっているのです。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。そしてその面白さが、先で述べた楽しさや経験の組織化につながっていきます。

ただ問題もあります。次の展開、すなわち全体として議論を進めるのに時間がかかる。堆積は、とりあえずはメモすることはできますが、それを一筋の議論、線形性を帯びた議論にするのはかなり時間が必要です。堆積はメモとして眺めることはできますが、議論に移行するには時間がかかります。ただ問題の軸は時間がかかるということであり、議論が困難だということではありません。おなかが減り、喉が渇くということです。また「終わりなど必要のない対話」(ソルニット)や「議論中毒」の手がかりもそこにあるように思うのですが、体力が持たない。

さてそろそろ具体的に決めていきたいとこに移ります。以下、項目的に述べます。

(1)回り持ちの司会と司会の拡張

議論の方向性を多焦点化する必要があるように思います。まずは司会の回り持ちを提案します。最終的には参加者は同時に司会者であるというところに、参加者/司会という言葉を拡張してみたいと思います。

(2)前半の時間制限

前半にすべてコメントを出し切るのではなく、後半の議論においてもそれが持ち越せるようにすることが、前半と後半の有機的連関を作り出すことにつながるのではないかと思います。そのためには前半における発言時間、全体の時間の双方において制限を設けてはいかがでしょうか。議論の状況や人数に合わせてフレキシブルに対応したいと思います。

(3)ディスカッション・ペーパーの拡張

ディスカッション・ペーパーの意義はペーパーというところにあるのではなく、ディスカッションの前段階に「読む」という時間を設けることです。ですから狭い意味でのペーパーすなわち論文である必要はなく、資料でもいいし、短い文章でもいい。ただしやはり項目だけの箇条書きではなく、「読む」ということが可能な文章であることが原則です。これを従来通り土曜日までに配布すること。

(4)ディスカッション・ペーパーの配布について

上に述べた火曜会の構造にもかかわりますが、配布をMLでおこなうことは、かなり大人数に文書をくばることになります。これにかんして「誰が読んでいるのかわからない」「勝手に引用されたら」といった危惧があるかもしれません。ただ他方で、「議論の場に居合わせることがなくても、あるいは直接お会いすることはなくても、メーリングリストを通じて、既知の人、未知の人が、どこか別の時に、別の文脈で、このペーパーを読んでいるのかもしれない」(西川さんの「火曜会通信」)というのは火曜会の広がりでもあり、またこのひろがりにおいて、先に述べた「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」が確保されているともいえます。まずはペーパーの無断引用厳禁ということを再確認し、同時にMLの整理を試みたいと思います。

(5)火曜会通信について

まず火曜会通信は長文である必要はなく、短い感想でも、もちろん長いものでもかまいません。量は自由だということを改めて確認したいと思います。また誰が書くのかということについて、当初は、報告者でない人が書いていました。また一人だけではなく複数報告を書く場合もありました。そこで提案ですが、書きたい人、あるいは報告者が書いてほしい人、の調整の中で、書く人を決めてはいかがでしょうか。あと、火曜会通信はHPにも掲載されるので、固有名などについて少し注意が必要です。このあたりはまずは私がアップする際にも注意したいと思います。

(6)報告者第一主義

今火曜会は基本的にはエンドレスです。そしてその時間を支配しているのは議論です。それは、時間切れという制度を可能な限り登場させないことであり、先に触れた「議論中毒」ということともかかわりますが、そこに、報告者第一主義を設定したい。すなわち今のやりかたは、報告者が時間が取れない場合、報告の機会を奪うことにもなります。まずは報告者の都合を大事にしたいと思います。それは同様に、議論のあとの懇親会にもかかわります。懇親会は議論の延長であり、報告者が更なる食事会を希望するときに議論の延長としての懇親会をしましょう。

(7)精読会の復活

11年前に火曜会の中で「精読会」というのを提起したことがあります。その時の文章を火曜会のHPにアップしています(「火曜会の中に精読会の増築を提起する」http://doshisha-aor.net/place/173/)。よければぜひ読んでください。内容は要するに本読みですが、火曜会の中でそれをやることの意義を考えました。今期、試みとしてこの精読会を少しだけ復活させてみたいと思います。

 

Ⅲ特別編その他

12月14日(土曜)に、『始まりの知』をめぐって、以前も何度かいらしていた車承棋さんが話をしに来ます。どのような場にするのか、丁寧に進めていきたいと思います。場を作る作業に参加される方は、沈正明さん、もしくは冨山にご連絡ください。ぜひ! 尚、14日のこの会には、すでに複数の参加希望が韓国から届いています。

 

11月30日グローバル・スタディーズ設立10周年事業と翌日のグローバル・スタディーズ学会に、以前集中講義でいらっしゃり、火曜会にも参加していたデューク大学のレオ・チンさんが来ます!

 

 

Ⅳ今期の予定

表題はすべて仮です。期日前に報告者から再度アナウンスをしてもらいます。また報告の場合、ディスカッション・ペーパーを前週の土曜日までにMLで流してください。

 

 

10月9日           案内人 姜喜代

『外泊』(2009年)を見る

先日いらしたキム・ミレ監督の作品です。すごく元気の出る作品です。

(この火に精読会の読み物を決めます)

 

10月16日  修士論文の中間報告会が終日あり、休み

 

10月23日        精読会

 

10月30日        精読会

 

11月6日          報告者 木谷彰宏

街をみる~沖縄市が“戦後”辿ってきた風景に出会いなおす~

 

11月13日          報告者 内藤あゆき

林芙美子の従軍記における「御不浄」

 

11月20日        報告者 西川和樹

栄養士近藤とし子と危機の時代の栄養学

 

11月27日     事務を含む大学全体が休みなので休み

 

12月4日         報告者 高橋淳敏

「ひきこもり問題」は何が問題なのか

 

12月11日       Ⅰ報告者 ヤオ・イミン

ハンコについて

Ⅱ報告者 ダニエル・ダールベリー

歴史学における認識論

 

12月18日       報告者 佐久川恵美

福島原発事故と2020年を考える

 

1月8日        報告者 姜喜代

ダラコスタと加納実紀代の「資本」

 

1月15日       報告者 増渕あさ子・謝花直美

オフリミッツから考える那覇の占領・戦後

 

1月22日       報告者 岩島史

農家の家事育児労働をどう研究するか

(この日は持ち寄りのパーティーをしましょう)