火曜会第34期の予定
すでに終わりました。
火曜会(第34期)
同志社大学志高館SK214
15時より
2020年10月21日
冨山一郎
問題意識の芽のようなものが生まれつつあるときに、それを共有する人や場所、議論できる場所がないとき、その違和感や問題意識の感覚は感覚のままに、言葉にされないままにその人の内側に放置されることになる。違和感や問題意識をそのままに引き受ける場所は、圧倒的に少ないのである。それらを口にできる場所自体少ない上に、口にできたとしても、その問題意識の根にあるものを明快な言葉で定義付けてしまうことで、一気に具体的行動へと直結させていく運動が待ち構えていたりする。少し立ち止まり、周囲を見渡し、考える場所が必要な時がある。そういう場所を見つけられないとき、その芽はやがて社会の主流的な流れの中でかき消されていくことになる、と私は考えている。(堀川弘美「『草の根通信』という場所―松下竜一における運動としての書き言葉―」)
開始にあたって、春から夏の展開の中で考えたことを述べ、秋以降の火曜会の具体的在り方について提案します。
Ⅰ雑誌『MFE』準備号について
まず、この間お伝えしている雑誌『MFE』についてです。火曜会メーリングリストで準備号への原稿募集をしました。多くの原稿が集まり、11月初めには準備号が出せそうです。
同雑誌の趣旨は、何度か述べてきましたが、これまでの火曜会の展開と深く関わるもので、それについては、6月13日のオンライン集会に向けて送りました趣意書(http://doshisha-aor.net/place/652/)を読んでください。ただこの趣意書は、これまでの火曜会の展開を念頭に書かれたものです。ここにあらためて、この間の状況の中における場と場を繋ぐメディアの必要性と、火曜会のありかたを、考えていきたいと思います。
ところで9月中に『始まりの知』のハングル版が刊行される予定です。刊行にさいして、ハングル版の序を書きました。この「序」の要点は、自律的に思考するということの重要性、そして具体的には、春から夏に行った次に述べる『通信』という媒体とともに、『MFE』を考えてみたいということです。
Ⅱ『通信』という媒体
上記の「序」でもふれていますが、一人で考えるという場も含めて、考えるという行為の場が分散せざるを得なかったということが、今の状況認識としてあります。一人でいる、あるいは少人数で集まるという場が、そこかしこに登場しました。こうした場が何か、あるいはそれを媒介していくということは、いったいどういうことなのか。「序」にあるように私は『通信』という媒体の中で、それを考えました。具体的には、『院ゼミ通信』と『「山代巴を読む」通信』です。またそれは、これまでの『火曜会通信』を再考することでもありました。(火曜会にかかわる文書たちを、順次<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えてられています。ぜひご覧ください。)
まず思うことは、春から夏にかけてこうした考える場は、どこかで生ということと絡んでいたということです。それは今も続いています。どうやって生きていけばいいのか(あるいは感染を防げばいいのか、でもそれは同じではない)ということと、どうやって考えていけばいいのかということが、深く重なり合う事態とでもいえばいいのでしょうか。
いまこうした認識が、科学的に正しいかどうかということが問題なのではありません。とりあえず不確定な状況の中で、また世界で拡大し続ける死者を前にして、共に生きるということと共に考えるということが、二つの重なり合う問いとして、私たちの前に登場したということが、重要なのだと思います。
『通信』からうかびあがったのは、おおげさにいえば、集まることが禁じられた状況の中で、一人ひとりがそれぞれの場において、生きることを考えることとして見出し、それを「読む―書く」という営みの中で言葉にしていったということです。また、場がないからこそ、より一層言葉の場を希求する思いが、はっきりと浮かび上がる。『通信』にはそのような営みと思いが込められていました。そしてそれは、「序」でも書いたことなのですが、「重なり合いながらも決して一つにまとめることができないものであり、かつ現在進行形で増殖し続け」、「誰かが中心となって統括されるわけではなく、また序列がつけられるようなものでもない」ような、共に考えるということでした。それは集まりともいえますが、それぞれが軸となりお互いが契機となりながら拡張されていく集合的な思考の在り方です。あるいは思考とともに集まりが生まれていくプロセスといってもいいかもしれません。
たとえ疫学的には事態が収束したとしても、この生き続けるための共同/協働として、考えるという営みがあることを出発点として確保したいと、私は思いました。事態が「収拾され」、「再開する」という動きに、流されたくないのです。なぜならこの間、見えてきた生の危機は、ウィルスに還元できるようなものではなく、既にあり、これからも続くからです。
Ⅲ提案―第34期火曜会と『火曜会通信』、『MFE』
第34期火曜会では、対面の場に集まることを基本としてきた火曜会と、『通信』からうかびあがった「集まり」を連関させたいと思います。それは、具体的に火曜会に集まれない人々がいるということ、そして先ほど述べた少人数の場がひろがっているということを、念頭においてのことでもあります。
また現状への考え方や、不確実な状況の中で「もし」ということにおいて想定される事態も、人によってさまざまでしょう。こうした個々の状況認識はとても大事なことであり、統一的な掛け声や制度において解消すべきことではありません。こうした「生」を根底にすえたそれぞれの状況への身構えを大切にしながら、第34期火曜会を始めたいのです。『通信』からうかびあがった「集まり」を、この始まりにおいて確保したいのです。
提案したいのは、これまでのディスカッション・ペーパーへのコメントを、文章でも行えるようにするということです。つまり、いままで火曜会は対面の議論を原則にしてきました。『始まりの知』の終章でも述べましたが、それはとても重要なことだと思います。と同時に、対面の場に参加できなくても、ディスカッション・ペーパーを読み、書くという営みを通信として発信したいと思います。議論の参加者に加え、ディスカッション・ペーパーをそれぞれの場で読んだ人々が文章をよせ、それを『火曜会通信』として刊行するのです。またディスカッション・ペーパーを書いた人には、さらにそれに応答してもらってもいいでしょうし、それをふまえて『MFE』に文章を書いてもらってもいいと考えています。
こうしたことを実行するには、若干の編集作業が必要になります。まずは私が編集作業を行っていきたいと思います。報告の後、報告者、参加者、そして参加できなかった人から文章を書いてもらい、『火曜会通信』として刊行していきたいと思います。
Ⅴ具体的提案と説明
以下これまでおこなってきた火曜会の説明と、司会についての提案です。
(1)火曜会の構造
火曜会の場は、三重の構造になっています。まずメーリングリストにおいて表現される場ですが、これ火曜会で議論をした経験を持つ人々において構成されています。人数は100名を超え、また東アジアや北米だけではなく、ヨーロッパ、北欧、北アフリカにまでひろがっています。こうした広がりの中で、定期的な火曜会が開かれています。またそうであるがゆえに、時々、「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」(西川さんの「火曜会通信」89号http://doshisha-aor.net/place/619/)として、登場する人々がいるのです。この人たちも含めて三重構造(間の旅人は構造というより流動系ですが)になっている。
また火曜会は「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つがあります。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしています。また今期でしたら定例研究会(第34期)としたいと思います。定例研究会、通称「火曜会」です。二つ目は、後でふれる「火曜会通信」についてです。この通信はウェブペーパーとしての「研究会報告」としても使えるようにしたいと思います。定例研究会報告「火曜会通信」。もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。第三に、「ディスカッション・ペーパー」(これについてもあとでふれます)ですが、この間、ディスカッション・ペーパーが学術雑誌などになる、あるいは学術雑誌に向けてのペーパーがディスカッション・ペーパーとして出されるということがありました。既存のメディアに掲載された場合には、火曜会で議論したことをどこかで明示してください。またディスカッション・ペーパーの先に、最初に述べた雑誌『MFE』を考えています。
(2)すすめ方
事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を一人一人の言葉が担っているような感触もあります。すべての参加者の「私」が出発点になっているのです。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。あたかも一人ひとりが参加してノミをふるい、批評し合いながら一つの彫刻を作り上げていくような感覚です。
ただ問題もあります。次の展開、すなわち一人ひとりが一通りコメントし終わった後の全体として議論を進めるのに時間がかかるという問題です。堆積は、とりあえずはメモすることはできますが、それを一筋の議論、線形性を帯びた議論にするのはかなり時間が必要です。堆積はメモとして眺めることはできますが、議論に移行するには時間がかかります。ただ問題の軸は時間がかかるということであり、議論が困難だということではありません。おなかが減り、喉が渇くということです。体力が持たない。
改善方法として、以前から「パス」ということを気軽にいおうということがありました。これは続けたいと思います。また最初の注釈やコメントを、最初の「読む時間」において各自できうる限り準備をしておくように心がけるというのもいいかもしれません。
(3)ディスカッション・ペーパーの配布について
ディスカッション・ペーパーは事前に配布します。前の週の土曜日までにMLで配布してください。また上に述べた火曜会の構造にもかかわりますが、配布をMLでおこなうことは、かなり大人数に文書をくばることになります。これにかんして「誰が読んでいるのかわからない」「勝手に引用されたら」といった危惧があるかもしれません。ただ他方で、「議論の場に居合わせることがなくても、あるいは直接お会いすることはなくても、メーリングリストを通じて、既知の人、未知の人が、どこか別の時に、別の文脈で、このペーパーを読んでいるのかもしれない」(前述の西川さんの「火曜会通信」)というのは火曜会の広がりでもあり、またこのひろがりにおいて、先に述べた「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」が確保されているともいえます。まずはペーパーの無断引用厳禁ということを再確認し、同時にMLの整理も試みたいと思います。
(4)精読会の復活
11年前に火曜会の中で「精読会」というのを提起したことがあります。その時の文章を火曜会のHPにアップしています(「火曜会の中に精読会の増築を提起する」http://doshisha-aor.net/place/173/)。よければぜひ読んでください。内容は要するに本読みですが、火曜会の中でそれをやることの意義を考えました。今期もこの精読会を続けたいと思います。
(5)司会についてなど
司会は回り持ちにします。報告者が事前に司会者を指定することにしたいと思います。司会をどのようにやるか、たとえば積極的にコーディネイトするかどうかは、司会者におまかせします。
(6)その他
今の状況下で大学施設を使う以上、しばらくの間冨山は、管理者として動かざるを得ません。具体的には人数制限、時間制限等についてです。また大学への説明も、しばらくの間必要になります。もし、大学入構の際、その目的を尋ねられたら、私に会いに来るということ、そして私と既に連絡をっていると応答してください。
Ⅵ予定
以下予定です。表題は仮です。一週間前に本人から再度通知してください。また上にも書きましたように、報告者は司会を事前に決めておいてください。最終日の1月20日に、打ち上げパーティーができればと願っています。
10月28日 精読会 李静和『新版 つぶやきの政治思想』を読む
案内人 冨山一郎
11月4日 沖縄の「慰安婦」問題とは何か(その1)―背景を考える
桐山節子
11月11日 家事労働者について
山口沙妃
11月18日 戦後農村における家電の普及について
岩島史
11月25日 移民としての沖縄人
フロロワ・アナスターシア
12月2日 精読会 松下竜一『暗闇の思想をー火電阻止運動の論理』を読む
案内人 姜文姫
12月9日 なぜ小説を書くのか
張夢霄
12月16日 オランダ領東インドにおける虐殺行為に関わるオランダ国王の謝罪について
溝口聡美
1月6日 ダラ・コスタとマルクス主義経済学
姜喜代
1月13日 文字の誕生に泣かされた幽霊について
小蠢熊(やお)
1月20日 沖縄占領とキリスト教
増渕あさ子
打ち上げパーティー!