火曜会第35期の予定
すでに終わりました。
火曜会(第35期)
同志社大学志高館SK214
15時より
2021年4月14日
冨山一郎
Ⅰ対面ということ
あたりまえのことが、強い意識的選択においてきめなければならない状況が続いています。それはゼミや研究会でも同じです。対面かオンラインか。それはまた、どうして対面なのかということを考える機会でもありました。
そんなことをつらつらと考えながら、この一年ぐらいはまっている精神科医の中井久夫の文章から、いくつかなるほどと思うことがありました。中井久夫にはエッセイがたくさんありますが、私は医学的文章こそがいいと思っています。それはもちろん臨床医としての精神医学にかかわる文章ですが、研究や考えるということにも通底するものがあり、むしろエッセイよりも面白いのです。医学の臨床と、火曜会の対面の場。両者は違うことなのですが、いまあえて、それを同じこととして書いてみます。以下の文章は中井が治療の場面において書いたものを、全て火曜会の議論として書き直したものです。カッコ内は中井の言葉です。内容は横領的剽窃です。
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議論において重要なのは、考えや意見に対する応答や評価ではなく、「脈が合う」ということです。それは議論以前の議論とでもいうべき事であり、場合によっては、なにも議論されてない静かな時間の経過でもあるかもしれません。あるいは静に話を聞いている時間なのかもしれません。しかし是非や批評、あるいは賛否とは異なる次元で「脈が合う」ことが、議論には必要なのです。またこの「脈が合う」ということは、その「合う」という時が到来するまで「待つ」ということの重要さでもあるでしょう。始まるのを待つ待機の時間こそが、議論の時間なのです。そうした是非の判断をこえた時間の中に、「味わう」という言葉が生きてくるのかもしれません。報告に対してなすべきことは、是非や評価を下すものではなく、「味わう」ものなのです。ともに「味わう」ということ。その場で交わされる言葉は、この「味わい」についての言葉なのです。
中井は、「言葉を受け取る者がもっとも信頼しうる最大の協力者は相手の身体性である」中井久夫「分裂病者における「焦慮」と「余裕」」『精神神経学雑誌』78巻-1号、1976、ただし「言葉を受け取る者」は「治療者」、「相手」は「病者」となっている)と述べましたが、こうした言葉以前の言葉に包まれた空間こそが議論空間なのであり、また意識するしないに関わらず議論の最大の要点は、一人ひとりが生身の体をもってその場所にいるということなのです。
知に身体を持ち込むことは、説明されても納得できないということ、あるいは感情や感覚的な直観も含めて今身体的反応といっておけば、知ること、考えることにおいてこうした身体の動きが、とても重要であることでもあるでしょう。中井は分かるということと、冷静で一般的な分析の間に決定的な亀裂を見出します。つまり冷静な説明に対する納得は、説明言語に「帰順」しているだけではないかというのです。あるいは「帰順」したことを前提にして、納得がその場で受け入れられている。そのようなことが前提にできないとしたら、そのような前提がありえない場だとしたら、やはり身体を押し出しながら、時間を費やさなければなりません。腑に落ちるとは、なかなかいいいい方です。しかししばしば、その前に「帰順」が強要されます。
こうした「帰順」ともかかわりますが、対象を属性でひとまとまりにして論じるやりかた以外の道筋はないのでしょうか。というより属性において社会や歴史を考える時、その属性がどうしても所与のものとなり、たとえその変容を考えたとしても属性から属性への移行という思考において反復されているように思います。その一つの典型が移動ということなのでしょう。人文学や社会科学の用語は、この属性中心主義において構成されているといっても過言ではりません。その属性の軸に、領土や主権があるのでしょう。
しかし「バラバラで孤立しているものを、一つの実体のように三人称複数として扱うことが、そもそもまちがっているのだ」(中井久夫『日本の医者』)としたらどうでしょうか。中井はどこまでも私が誰に向き合うのかということから思考を始めます。それは決して主観だとかポジショナリティといった問題ではありません。私ということを出発点にして世界は広がるはずだという態度の問題です。あるいは、私を含む集団として世界を考えるということです。竹村和子さんは、研究とは「まだ見ぬ地平」に「自分を押し広げる」ことといいましたが、それこそが中井が留まり続けた臨床ということなのでしょう。そしてその臨床はやはり対面的です。火曜会は対面で行います。
Ⅱ雑誌『MFE』について
まず、この間お伝えしている雑誌『MFE』についてです。準備号が刊行され、今、創刊号の編集作業に入っています。準備号、ぜひぜひお読みください。http://doshisha-aor.net/mfe/です。いまの状況を映し出す鏡のようにもなっており、あらためて言葉の可能性を再確認することができます。またよろしければ趣意書(http://doshisha-aor.net/place/652/)も読んでください。この趣意書は、これまでの火曜会の展開を念頭に書かれたものです。ここにあらためて、この間の状況の中における場と場を繋ぐメディアの必要性と、火曜会のありかたを、考えていきたいと思います。
Ⅲ『火曜会通信』
火曜会にかかわる様々な文書は、http://doshisha-aor.net/place/644/に収められています。火曜会が初めての人はぜひアクセスしてみてください。その中に『火曜会通信』というものがあり、それが火曜会での毎回の議論をふまえた『通信』です。
前回の火曜会ですこの『通信』をもっと充実させようと提案しました。すなわちディスカッション・ペーパーへのコメントを、文章でも行えるようにして、こうした読むことによる応答を『通信』にするということです。ですが結果的に前期は一度も出せませんでした。いろいろな理由があると思いますが、今期どうすればいいか、少し議論しましょう。
Ⅳ進め方について
(1)火曜会の構造
火曜会の場は、三重の構造になっています。まずメーリングリストにおいて表現される場ですが、これ火曜会で議論をした経験を持つ人々において構成されています。人数は100名を超え、また東アジアや北米だけではなく、ヨーロッパ、北欧、北アフリカにまでひろがっています。こうした広がりの中で、定期的な火曜会が開かれています。またそうであるがゆえに、時々、「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」(西川さんの「火曜会通信」89号http://doshisha-aor.net/place/619/)として、登場する人々がいるのです。この人たちも含めて三重構造(間の旅人は構造というより流動系ですが)になっている。
また火曜会は「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つがあります。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしています。また今期でしたら定例研究会(第35期)としたいと思います。定例研究会、通称「火曜会」です。
つぎは、後でふれる「火曜会通信」についてです。この通信はウェブペーパーとしての「研究会報告」としても使えるようにしたいと思います。定例研究会報告「火曜会通信」。
もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。
最後に「ディスカッション・ペーパー」(これについてもあとでふれます)ですが、この間、ディスカッション・ペーパーが学術雑誌などになる、あるいは学術雑誌に向けてのペーパーがディスカッション・ペーパーとして出されるということがありました。既存のメディアに掲載された場合には、火曜会で議論したことをどこかで明示してください。またディスカッション・ペーパーの先に、最初に述べた雑誌『MFE』を考えています。
(2)すすめ方
事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を一人一人の言葉が担っているような感触もあります。すべての参加者の「私」が出発点になっているのです。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。あたかも一人ひとりが参加してノミをふるい、批評し合いながら一つの彫刻を作り上げていくような感覚です。
ただ問題もあります。次の展開、すなわち一人ひとりが一通りコメントし終わった後の全体として議論を進めるのに時間がかかるという問題です。堆積は、とりあえずはメモすることはできますが、それを一筋の議論、線形性を帯びた議論にするのはかなり時間が必要です。堆積はメモとして眺めることはできますが、議論に移行するには時間がかかります。ただ問題の軸は時間がかかるということであり、議論が困難だということではありません。おなかが減り、喉が渇くということです。体力が持たない。
改善方法として、以前から「パス」ということを気軽にいおうということがありました。これは続けたいと思います。また最初の注釈やコメントを、最初の「読む時間」において各自できうる限り準備をしておくように心がけるというのもいいかもしれません。
(3)ディスカッション・ペーパーの配布について
ディスカッション・ペーパーは事前に配布します。前の週の土曜日までにMLで配布してください。また上に述べた火曜会の構造にもかかわりますが、配布をMLでおこなうことは、かなり大人数に文書をくばることになります。これにかんして「誰が読んでいるのかわからない」「勝手に引用されたら」といった危惧があるかもしれません。ただ他方で、「議論の場に居合わせることがなくても、あるいは直接お会いすることはなくても、メーリングリストを通じて、既知の人、未知の人が、どこか別の時に、別の文脈で、このペーパーを読んでいるのかもしれない」(前述の西川さんの「火曜会通信」)というのは火曜会の広がりでもあり、またこのひろがりにおいて、先に述べた「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」が確保されているともいえます。まずはペーパーの無断引用厳禁ということを再確認しておきたいと思います。
(4)精読会
11年前に火曜会の中で「精読会」というのを提起したことがあります。その時の文章を火曜会のHPにアップしています(「火曜会の中に精読会の増築を提起する」http://doshisha-aor.net/place/173/)。よければぜひ読んでください。内容は要するに本読みですが、火曜会の中でそれをやることの意義を考えました。前期から意識的に復活させましたが、今期もこの精読会を続けたいと思います。
(5)司会についてなど
前期から司会を回り持ちにしています。今期も報告者が事前に司会者を指定することにしたいと思います。司会をどのようにやるか、たとえば積極的にコーディネイトするかどうかは、司会者におまかせします。
Ⅴ「言葉を読むということ」(金曜4限 14時55分より SK214)
たとえば戦後日本の始まりにおいてしばしば言及される丸山眞男の『現代政治の思想と行動』という書があります。戦時期の天皇制ファシズムを分析し、戦後日本の未来像を描いたこの書は、たしかに多くの人々に読まれ、日本の戦後の始まりに大きなインパクトを与えたとされています。だがしかし、読むということは、同書内容に賛同することでもなければ、反対するということでもありません。また同書の社会的・歴史的意義を確定することでもないかもしれません。読むことにおいて、どのような集団性が生まれるのか。集団で本を読むとはどういうことなのだろうか。まずはここから考えてみたいともいます。それは具体的には、サークル運動や読書会にかかわることというだけではなく、まさしく大学で行われるかなりの活動をしめる問題でしょう。ですからこの授業では、読むということを、考えるだけではなく、実践してみたいと思います。考えるために藤田省三をよみ、実践として松下竜一の『狼煙を見よ』を読みます。
Ⅵその他
今の状況下で大学施設を使う以上、しばらくの間冨山は、管理者として動かざるを得ません。具体的には人数制限、時間制限等についてです。また大学への説明も、しばらくの間必要になります。もし、大学入構の際、その目的を尋ねられたら、私に会いに来るということ、そして私と既に連絡をっていると応答してください。
あとSAをM2の人にお願いしています。山口沙妃さん、フロロワ・アナスターシア(ターシャ)さん、王思睿さん、孫宏傑さんです。ただ報告の準備等は原則として報告者自身が行ってください。
Ⅶ予定
以下予定です。表題は仮です。一週間前に本人から再度通知してください。また上にも書きましたように、報告者は司会を事前に決めておいてください。最終日の7月21日に、打ち上げパーティーができればと願っています。
4月21日 ハイエク思想と沖縄政治
島袋琉
4月28日 歓楽街と全軍労
桐山節子
5月12日 イタリアフェミニズムに関わる映画鑑賞
案内人 姜喜代
5月19日 精読会 中井久夫「抵抗的医師とは何か」を読む
案内人 冨山一郎
5月26日 流着と宣言
冨山一郎
6月2日 ハルモニの遺したもの
金大勲
6月9日 人々の移動と沖縄の地域史
岡本直美
6月16日 転向と転向文学
孫宏傑
6月23日 閉鎖の島とポストコロニアリズム
嚴聖崴
6月30日 動物文学を考える
内藤あゆき
7月7日 精読会 D・グレーバー『民主主義の非西洋起源について』
案内人 孫宏傑(+募集中)
7月14日 崎山多美を考える
張夢霄
7月21日 文学と鬼
ヤオ