火曜会通信(96)-聞く・書く・読む
聞く・書く・読む
山本真知子
コロナ禍を機に、フィールドワークと聞きとり調査をしてきた沖縄島の東村高江に移り住み、暮らしながら博士論文を書きはじめた。それは、ただ一時的に大学から距離を置くというよりも、これから先、研究から離れることになったとしても、出逢いを通して聞き-書き-読む(読まれる)関係のなかで生きていこうと覚悟してのことだった。大学によってまもられた言論空間の外で、ちゃんとことばを紡いでいけるようになりたい。理解されないかもしれないが、わたしはいま、博士論文を書くためにのこされた時間をその一点に注いでいる。
さて去る4月27日、半年ぶりに火曜会を訪れ、報告する機会をいただいた。そこで投げかけられた問いには、いくつか共通するものがあった。➀学知を批判しているにもかかわらず、なぜ論文を書きつづけているのか、➁どこに身を置いて話を聞いているのか、➂だれに読まれることを想定して書いているのか、という三つだ。以下では、これらの問いに応答してみたい。
さっそく一つ目の質問からいこう。論文を書く理由は、大きくわけて三つある。一つめは、博士論文を書くことを通して、これまで出逢ってきた人たちから聞かせてもらってきたことばを受けとめ、よりよい社会をともにつくっていく出発点に立つ準備をするため。もう一つは、よそ者(あるいは、日本人)のおんなであるわたしにとって、生きていくために必要なことばを探し求めていくため。三つめは、この先も聞く-書く-読む(読まれる)ことを通して、出逢いつづけていきたいからである。書いたものがいつかそれを必要とするだれかのもとにちゃんと届くように、まずはアカデミアの外にはじきだされたわたし自身に通じることばをつかおうと思っている。
今回そうして書いたものをみなさんに読んでもらったわけだが、火曜会に文章を送りつけ、半ば強制的に読ませることに違和感がないわけではない。継続的に参加しているわけでもなければ、研究のために足を運ぶわけでもないから、場違いのような気もする。しかし、火曜会は研究集団であると同時に、その場を離れて一人ひとりの生を支えつづけていく、ひらかれた運動集団として維持されてきたのではないか。そう視点を変えてみるとき、そこで読まれることがわたしにとって運動の一部であり、ひとりでは身動きが取れないから対話を求めて通うということが、そこに身を置きに行く理由として受け入れられてきたような気がして少し安堵する。そして、そういう場所をもっとつくりたい、増やしたいと思うのである。
どういうことかというと、たとえば高江に移住したあと、わたしはいままでに感じたことのない孤独を抱えるようになった。感情のはけ口がない、というのが最大の理由だったように思う。よそ者としてここで暮らしているうちに、わたしは思いもしないかたちで対立に巻き込まれたり、米軍ヘリパッド移設問題を通して負ってきた傷が言動にあらわれでる瞬間に遭遇したり、日本本土(ヤマト)から来た侵略者として名指されたりしてきた。そういうひとりでは耐えられない、どうにもできないことを抱えてどうやって生きていったらいいか突破口を探すなかで、とりあえず火曜会に足を運んだ。苦悩や問題、課題が、火曜会によって100%受けとめられたり、解決されたりすることを期待しているのではない。まずは日ごろ自分が身を置いている場所で抱える問題を文章にしたときに、それを読んで受けとめようとしてくれる場所があることが、一筋の光のように思えたのである。
矛盾したことを言うようだが、京都で日々大学に身を置きながら接してきた火曜会は、それとはちがっていた。わたしはそこに行くと、決まって息を殺し、目を伏せて、できるだけなにも言わずにじっとしていた、というかそうする以外の身の置き方がわからなかった。幅広い視点からコメントが聞ける刺激的な時間ではあったが、次第に離れていった。どうしてなのかはよくわからないが、そんな身の置き所も十分に確保できなかったような場に、わたしはいま救われている。それはきっとこの場を変えようとしてきた人たちの模索があったからこそのことなのだろう。高江から参加させてもらう火曜会では、そういう痕跡を発見することがある。とにかく、ここで誤解を招くような話をあえて持ちだしたのは、火曜会という場を手放しに称賛したいわけではないからだ。くりかえすが大事なのは、書いたことがまっさきに分析されたり批評されたりするのではなく、ちゃんと読まれる場があるということなのである。
ここで付言しておきたいのは、わたしは書いたものが読まれる場として火曜会を暮らしのなかに取り入れているが、火曜会で読んでもらうために書いているわけではないということだ。そうではなく、あくまでも聞きとり調査を通してお話を聞かせてもらってきた人たちとの関係のなかにことばを置きなおそうとしている。そのなかで必要があれば、研究者や政治家、マスコミ、その他大勢の人たちに向けて書いたり、読まれることを意識したりすることもあるが、それは副次的なものである。
ところで、この出逢ってきた人たちとの関係性のなかで書くということ。これは、聞きとりをするなかでも大事にしてきたことだが、そう簡単にできることではない。気づいたら「いい論文」を書くためにお話を聞かせてもらうようになっていたり、軽はずみな質問や分析によって話を聞かせてくれた相手を傷つけたりしてしまったこともある。しかし、出逢いに照準をあわせて聞きなおし書きなおしはじめたとき、わたしは研究という領域から聞く-書く行為を引きはがそうとしはじめたように思う。すると、それまでと同じように聞いたり書いたりできなくなり、自分の書いてきたものも読めなくなった。研究に伴う暴力性に敏感になったとでも言えばいいだろうか。とりあえずいまわかっているのは、どんなに自らの暴力性に対して批判的になろうとも、聞きとる側にいる以上、能力を振るい、傷つけうる存在だということから逃れることはできないということ。そして、相手だけでなく自分自身もまた傷つきある存在であることを受けとめたうえで、いかに出逢おうとするかということが重要なのではないかということである。
こう言いながらわたしは、コロナ禍があぶりだした、孤独に苦悩を抱えたままカタツムリのように殻のなかに身を隠して出逢いそこないつづけていく状況を想起している。問題を個人に背負わせたり、分断をもちこんだりすることばであふれているにもかかわらず、一人ひとりが生き延びていくためにほんとうに必要なことばは見つからない。そうした状況下において、暴力へのさらされを瞬時に感知するカタツムリ的存在は、じっと耐えつづけてきたのではないか。
ここで唐突にカタツムリを登場させてしまったが、今回火曜会で報告した際の表題は「カタツムリが詩うとき――出逢いの場としての運動」としていた。わたしがカタツムリの話をする背後には、作家・山代巴(1912~2004年、以下巴)の運動実践がある。巴は、共産党再建にかかわる活動に関与し治安維持法を犯したとして敗戦直前まで獄中で過ごしたのち、生家がある広島に戻った。そこで、広島の農村で暮らす女性たちの内部に「カタツムリ」を見出すことになる。どういうことかというと、寄り合いや集会では一言もしゃべらないのに、帰り道で何人もの女性たちから身の上話をこっそり打ち明けられる、ということを巴は何度も経験したのである。かの女たちは主要な発言者の内心を探り、怖くなってなにもしゃべれずにいた。そういう女性たちの声を聞くことを通して、巴は民話をつくって語り聞かせはじめる。そうすることで、個々の体験がしゃべりだされる呼び水にしようとしたのである。
一点付け加えておきたいのは、巴がカタツムリに言及するとき、そこにはかの女の連れ合いである山代吉宗のことばが貼りついているということだ。吉宗は、カタツムリのように敏感な触角をもち、すぐに固い殻のなかに身を引っ込めてしまう労働者や農民たちに対して、上から怒鳴って言い聞かせるようにして教えてもファシズムとたたかえないと言っていた。巴はこのことばを胸に刻み、農村の女性たちが抱える問題を聞くことを通して、カタツムリたちが出逢う契機をつくり、既存の関係を変えようとしてきたのである。わたしはこのことを頭の片隅におきながら、身近なところにあるカタツムリ的状況性を考えている。
火曜会で尋ねられた、どこに身を置いて聞き取りをしているのかという、二つめの問いに立ち返ろう。一言でいえば、わたしはカタツムリの傍らに身を置いてきたと思っている。2007年にはじまった高江の米軍ヘリパッド移設工事は、たしかに2016年に完了した。しかし、なにも起こっていないかに見える平穏な日々のなかで、飛行訓練は激化しており、住民は騒音によるストレスや米軍機が落下するかもしれない恐怖を抱えているし、土壌や水の汚染、その他事件は相次いでいる。問題はなくなったわけではなく、むしろ現在進行形で軍事的暴力として顕在化しつづけている。感覚を麻痺させなければ生きていけないような危険ととなりあわせの場所で暮らしつづけていくということ。それは、カタツムリの殻にまもってもらいながら、しかしくりかえし傷つきながら生きのびていこうとする営みなのかもしれない。そのときに逃げたり隠れたりすることが必要なこともある。でもそれで問題が解決するわけではない。となれば、次に求められるのは、ひとりの力でなんとかしようとするのではなく、出逢いを求めて動きだし、集まるということになるのではないか。ヘリパッド移設・運用に反対し、米軍北部訓練場基地ゲート前に座り込む人びとは、そうしてあらわれたカタツムリたちであり、座り込みの現場は、カタツムリたちが出逢う場でもあったのではないか。
わたしはその座り込みに通いながら、そこで出逢ってきた人たちのお話を聞かせてもらってきた。留意したいのは、そのカタツムリ的状況性が、運動のなかだけでなくフィールドワークにも深くかかわっているかもしれないということである。フィールドワークといっても、わたしたちのあいだにはなにも起こらないことのほうが多く、そのひとにとって大事なことであればあるほど語りだされるまでに時間がかかる。カタツムリ的存在である一人ひとりは、集まった先でも殻に身をまもられているからだ。しかし、その傍らにいると、殻のなかにからだを固めた状態から角や頭が出てくる場面に遭遇することがある。そういう瞬間は、語っているひとだけでなく、聞いているわたしも殻から顔を出しているような気がする。でも、おたがいいつでも顔をだして、視線を交し合って、おしゃべりしていられるわけでもない。その身に及ぶかもしれない危険を察知すれば、反射的に殻のなかに隠れてしまう。
聞きとりは、する側にとってもされる側にとっても、暴力ととなりあわせの行為である。だが、傷つけることも傷つけられることもないように殻のなかに隠れたままではだれにも出逢うことはできない。ならば、危険を感知できるように鋭い触覚をもったまま、いつでも身をまもれるように殻を背負ったまま、ゆっくり(たがいを)知っていくことはできないか。そういう聞きとりはできないものか。わたしは考えつづけている。
話がとっちらかってしまったが、最後に一つだけ言っておきたい。それは、以上に記したような行為が、研究と呼ばれようとなかろうとどちらでもいいということだ。問題は、生の痕跡のなかからいかに自分自身の詩(ことば)を紡いでいくことができるか、カタツムリがうたう未来をつくれるかどうか、ということにあるからである。