火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

 火曜会第39期 (2023年春)の予定

火曜会39期はすでに終了しました。    

              火曜会第39期
               (2023年春)
          同志社大学烏丸キャンパス志高館
                SK214
               15時より

              2023年4月19日  冨山一郎

Ⅰ場
 2021年の春(5月19日)の第35期の火曜会で、「中井久夫を読む」をおこなった。そこで中井が楡林達也というペンネームで書かいた「抵抗的医師とは何か」(中井『日本の医者』所収)をとりあげた。これはある大学の医学部の学生自治会により1963年ごろにパンフレットとして刊行されたものだ。多くのエッセイを書いている中井自身が、「私の書いたもののなかでは、ただ一つ熱っぽい文章」と述べ、同時に「私の考えが以後それほど変わったわけではない」というものだが、この文章には、現在の医局や医者という集団が人を殺しているという現状認識と、その中で何を始めるべきなのかという内省的問いが、全体を貫いている。少し大げさにいえば、友人が殺され自らも殺されまた殺すかもしれないという現状の中で、何をなすべきかを考えようとしたのだ。「彼を殺したもの」「君を殺したものの正体」を見据えているのだ。中井にとって世界は市民社会ではない。この正体がいつも控えている世界のようだ。
 中井は昨年の夏、亡くなったが、多くのいわゆる「追悼文」でもこの「抵抗的医師とは何か」が言及されている。その中に、前期38期の最初に「モノローグにつつまれてしまう前」(HPを見てください)でふれた高木俊介の「精神医療改革運動の中井久夫」(『精神科治療学』38巻3号、2023年3月)という文がある。高木の文章を読んで、あらためてこの「抵抗的医師とは何か」がわかったように思う。
この文章は最初パンフレットで刊行された。その時の表題は「革命家は別の入口へどうぞ」だったそうだ。大学の医局の在り方をめぐっては、当時いわゆる混乱期に入りつつあった。とりわけ精神医学においては反精神医学が登場し、また1961年の刑法改正は精神医学と刑法が合体した保安処分の動きとして登場し、こうした動きへの反対運動も1970年代に向けてひろがっていた。またこうした動きは他の地域でも広がり、後で述べるSPKとも連動している。精神医療は、医療の問題というだけではなく、フーコーが「超合法的」とよんだ権力をめぐる闘争のアリーナになっていたのである。やや遅れて医局にはいった高木もこうした潮流の中にいた。そして高木は中井との関係を「袖振り合うの縁」と述べている。中井を称賛する追悼文ばかりの中で、高木のものはそうではない。運動を継続する組織と牽引する者、そしてその動きには別の入り口からはいった「抵抗的医者」。平板に描けば両者は、こういう関係だということがよく分かった。
 中井のこの文章には、「バラバラで孤立しているものを、一つの実体のように三人称複数として扱うことが、そもそもまちがっているのだ」という一文がある。未来は、三人称複数において表現される集団や所属で描かれるのではなく、「私」が、そしてこの「私」が人と出会う営みこそが、未来なのだ。抵抗は変えようとすることと同時に、いやその前に、私と私から始まる関係が変わることなのだろう。また、この中井のいう抵抗には思想や組織やスローガンの前に態度あるいは姿勢とでもいうべき領域を確保しているように思える。
 しかしこの文章を読んだときにも思ったことだが、これだけでいいのだろうかという問いはやはりある。他者と向き合うということだけに陥没してしまうのではないか。倫理的命題としては分かるが、それだけでいいのか。
そして高木も同様な問いを立てている。それはまた、こうした私と他者の関係が丁寧に紡がれることが継続することをどのように確保するのかということでもある。関係性がうまれることと、その継続を確保することは重なるが別の問いなのだろう。そこにはある種の中井が批判した三人称的眼差しと思考が必要なのではないか。それが場をどうするのかということなのかもしれない。

Ⅱ進め方について
(1)火曜会の構造
 火曜会の場は、三重の構造になっています。まずメーリングリストにおいて表現される場ですが、これ火曜会で議論をした経験を持つ人々において構成されています。人数は100名を超え、また東アジアや北米だけではなく、ヨーロッパ、北欧、北アフリカにまでひろがっています。こうした広がりの中で、定期的な火曜会が開かれています。またそうであるがゆえに、時々、「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」(西川さんの「火曜会通信」89号http://doshisha-aor.net/place/619/)として、登場する人々がいるのです。これが二つ目の領域。最後が直接対面で行われる火曜会です。こうした三重構造(間の旅人は構造というより流動系ですが)になっています。
また火曜会は「演習Ⅰ、Ⅱ」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つがあります。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしています。また今期でしたら定例研究会(第39期)としたいと思います。研究センターの定例研究会、通称「火曜会」です。
もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。
(2)すすめ方
事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を一人一人の言葉が担っているような感触もあります。すべての参加者の「私」が出発点になっているのです。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。あたかも一人ひとりが参加してノミをふるい、批評し合いながら一つの彫刻を作り上げていくような感覚です。火曜会ではディスカッション・ペーパーを前にした平等を前提に、一人ひとりが報告者であり、彫刻者です。
 ただ問題もあります。次の展開、すなわち一人ひとりが一通りコメントし終わった後の全体として議論を進めるのに時間がかかるという問題です。この時間にかかわって二点提起します。
ひとつは一人ずつのコメントについて以前から「パス」ということを気軽にいおうということが提起されています。これは続けたいと思います。また最初の注釈やコメントを、最初の「読む時間」において各自できうる限り考えを準備しておくように心がけるというのもいいかもしれません。
いま一つは、コメントの後の議論のすすめ方です。雪だるま式に積もっていくコメントを議論にするのは大変です。またあせってすすめると多くの場合論点が見失われることがおきます。これをできるだけ防ぐのは一つには司会の役割ですが、司会だけではなく参加者が目の前に堆積したコメント集合を丁寧に彫刻していくことが重要です。
(3)ディスカッション・ペーパーの配布について
ディスカッション・ペーパーは事前に配布します。前の週の土曜日までにMLで配布してください。また上に述べた火曜会の構造にもかかわりますが、配布をMLでおこなうことは、かなり大人数に文書をくばることになります。これにかんして「誰が読んでいるのかわからない」「勝手に引用されたら」といった危惧があるかもしれません。ただ他方で、「議論の場に居合わせることがなくても、あるいは直接お会いすることはなくても、メーリングリストを通じて、既知の人、未知の人が、どこか別の時に、別の文脈で、このペーパーを読んでいるのかもしれない」(前述の西川さんの「火曜会通信」)というのは火曜会の広がりでもあり、またこのひろがりにおいて、先に述べた「「言葉を置く」ためにやってくる旅人のような存在」が確保されているともいえます。まずはペーパーの無断引用厳禁ということを再確認しておきたいと思います。
(4)精読会
 11年前に火曜会の中で「精読会」というのを提起したことがあります。その時の文章を火曜会のHPにアップしています(「火曜会の中に精読会の増築を提起する」http://doshisha-aor.net/place/173/)。よければぜひ読んでください。内容は要するに本読みですが、火曜会の中でそれをやることの意義を考えました。前期から意識的に復活させましたが、今期もこの精読会を続けたいと思います。
(5)司会についてなど
 第34期から司会を回り持ちにしています。今期も報告者が事前に司会者を指定することにしたいと思います。司会をどのようにやるか、たとえば積極的にコーディネイトするかどうかは、司会者におまかせします。そのうえで司会については、上記の(2)の最後で述べたように、コメントから議論へという展開をどうするのかということにおいて、少し意識的に考えてほしいと思います。またそのためには司会になった人は、全体のコメントに注意を向ける必要があります。

Ⅲ『火曜会通信』
 火曜会にかかわる様々な文書は、http://doshisha-aor.net/place/644/に収められています。火曜会が初めての人はぜひアクセスしてみてください。これまで火曜会で何をしてきたのかということがわかります。また『火曜会通信』というものがあり、それは火曜会での議論をふまえた『通信』です。しばしば『通信』を楽しみにしているという声が届きます。それは上記の火曜会の構造の第一の層にもかかわるでしょう。前回の火曜会で、この『通信』をもっと充実させようと提案しました。すなわちディスカッション・ペーパーへのコメントを、文章でも行えるようにして、それを『通信』にするということです。ですが、この間通信は出せていませんでした。前期は久しぶりに佐久川さんの火曜会通信が出ました。HPを見て下さい。

Ⅳ雑誌『MFE』について
 ようやく動き出した雑誌『多焦点拡張 MFE』です。http://doshisha-aor.net/mfe/742/
創刊準備号を入れて三号まででました。「MFE」は「多焦点的拡張主義(Multifokaler Expansionismus=MFE)」の略語です。この言葉は、1960年代後半に西ドイツのハイデルベルク大学医学部精神科の助手や患者を中心に生まれた社会主義患者同盟(Sozialistisches Patientenkollektiv=SPK)が遺した言葉で、それは、「精神病」が体現する禁止の領域を人々が集まる場所(暖炉)に変えていく運動を意味しています。また「焦点(fokus)」という言葉には、禁止と暖炉の二つの意味が重ねられています。とても乱暴にいえばそれは高木さんたちの活動と通じるものがあるように思っています。またここでいう拡張、すなわち広がるということとは、同質な多数派を構成していくことではなく、自らの住まう既存の世界がその存立前提として禁止してきた領域を問い、禁止された領域とともに変わっていく運動としてあります。また焦点とは、このような既存の世界の前提を問う動態の中で見出される場なのです。
SPKについては詳しくは冨山の『始まりの知』を読んでいただきたいのですが、ともあれ学の領域や区分にかかわる言葉ではなく、禁止を暖炉に作り変え続けていく運動(expansionismus)を、雑誌名に掲げました。それは、雑誌『MFE』が担う、思考の場の新たな生成と連結が、既存の世界の前提を問い続ける運動になると、確信しているからに他なりません。こうした雑誌と運動について、「雑誌の「雑性」について」という題で『思想』2023年3月号の「思想の言葉」で書きました。MFEについても言及しています。よければ読んでください。https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7022

Ⅴ予定
以下の予定にある表題は仮のものです。直前にそれぞれの報告者から直接アナウンスをしてもらいます。

4/26   「花であること 華僑二世徐翠珍的在日」(監督 金成日)を見る
                案内 冨山一郎

5/10        清田政信「帰還と脱出」(1968)について
                報告 冨山一郎

5/17             児童文学の中の家族像
―松谷みよ子の作品から考えるー
   報告 日高由貴

5/24       イギリスCh4が描いた在日朝鮮人社会を考える
                案内 李真煕

5/31      崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学―日琉同祖論再読』を読む
                案内 島袋琉

6/7         石牟礼道子と森崎和江の聞き書きについて
                報告 李啓三

6/14           忘れられる権利について
報告 山口沙妃

6/21             飼い殺しと飼い喰い
                報告 内藤あゆき

6/28          近代日本の「手」の領域について
              ―機織り・料理・物語―
                報告 西川和樹
7/5               津村喬を読む
                報告 南宮哲

7/12    「自分にとってのナショナリティあるいは祖国とは」を語ってみる
               世話役 寺田真千

7/19         戦争(論)と租税(法)のあいだ
                報告 沈恬恬

7/26          生きることと「問題」のはざま 
            ―川田文子『赤瓦の家』を中心にー
               報告 廣野量子
             
この後打ち上げパーティをします