コンソーシアム設立趣旨(2012/7/28)
設立趣旨
松島泰勝(龍谷大学経済学部教授)
現在、琉球は危機的状況にある。米軍基地の強制、自衛隊の先島進出、沖縄戦史の修正、植民地主義の拡大、開発による環境や地域の破壊、文化の商品化。我々、琉球人はこの惨い現実をどのように考えるのか、自己決定権をいかにして行使できるのかが問われている。
沖縄学は伊波普猷、東恩納寛惇、比嘉春潮、金城朝永等の琉球人学者によって先鞭がつけられた、琉球の言語、宗教、歴史、民俗等を中心とした人文系学問の総体である。沖縄学の主な担い手は学者であり、文献解釈に重点がおかれていた。現在の沖縄学においては、研究のタコツボ化や専門化が進み、専門用語が多用され、生活者の感覚や問題意識から遊離した「研究のための研究」に堕したケースも少なくない。
これまでの沖縄学の蓄積を踏まえつつも、その限界を乗り越えたい。琉球人は自らの問題を他人まかせにせず、自分の問題をとして受け止める。そこから問題意識が生まれ、学問が始まる。学問は学者の占有物ではない。日常の中に学問を取りかえし、琉球・琉球人の自治、自立、独立を実現することは、琉球人にとって大きな課題であると考える。
琉球の学問は琉球人(Loochoo as a Nation) だけで成立するのではない。日本人、米国人、中国人、朝鮮人等の非琉球人との真摯な議論によって、互いの関係性や当事者性を問いながら学的質を高める必要がある。多様な背景をもつ人々が集う京都という場所において、琉球の過去や現在を問い、将来を構想し、新たな琉球学を提示したい。
冨山一郎(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)
すぐさま沖縄民衆だとか、沖縄の心などということを論拠に持ち出す議論や、寄り添うとか、思いを受け止めるなどという言い方で何かを語ったよう顔をする論調がある。そして多くの場合こうした言い回しで構成される良心的な沖縄問題論は、議論すべき人と議論をすることを回避する言い訳として、あるいは読むべき文章を読んでいないことの代償として、もちだされる気がしてならない。結局のところ、関わりたくないのだろう。そしてだからこそ私は、こうした沖縄問題のエクスキューズを停止させ、きっちりと議論する場所がほしいのだ。コンソーシアムにある京都という地名は、歩いて出会える距離という意味であり、同時にそれは議論の継続性であり、さらにいえば、薄い話を拍手でもって承認することを許さない関係でもある。それ以上の意味はない。
安里陽子(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科院生)
フィリピンで出会った沖縄系フィリピン人、シンガポールで出会った、文化の力で国境を越えたアイデンティティを生み出しているプラナカン、あるいは中国本土からの攻撃に備え、いたるところに壕が掘られたシーサーの島・金門島のこと―――背景には、米軍基地や、植民地主義、冷戦構造に巻き込まれた歴史、人の移動、あるいはポピュラーカルチャーなどといった、沖縄にかかわることと密接に関連する問題があることに驚かされる。これまでフィリピンやシンガポールといった東南アジアにかんすることを研究テーマに考えてきたけれど、それらは同時に沖縄のことを考えるきっかけとなっている。
沖縄にかかわる問題は、沖縄の特殊な問題というわけではない。大きな力に翻弄されてきたアジアが抱えている、共通の問題でもあるといえる。この<奄美―沖縄―琉球>研究コンソーシアム(京都)をとおして、いま大きく変化しつつあるアジアのなかの沖縄について考えていきたい。