火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(77)ー関谷滋さん私論

 

関谷滋さん私論(2018年10月10報告

福本俊夫

 

今回のペーパーを書くことで、他者を語ること、他者から学ぶこと、他者を議論することの難しさを改めて自覚しましたが、本箱の中にあったはずの、しかし見つからない本はネットで古本を探し出して購入し、読み直したりして書きました。

ベ平連関係の資料を探し出し、読み直すという楽しい読書三昧の夏休みでした。

また、報告文を書きながら、ああこんな資料もあった。こんな出会いもあった、これも読んでもらおうなどと考えてしまい、追記の章が続いてしまいました。これまでの出会いの記憶たちがミラボールの光のように飛び出してきて、結局追加、追加の報告文を作ってしまいました。

いま10日の火曜会の議論の報告を書こうと思いながら、様々な論点を指摘していただいたのに、自分のことを書いた昨年と一昨年の報告会の時より緊張し、書き残したメモが乱雑なメモで、自分のメモなのに解読できず焦っている状態ですが、なんとか思い出しながら整理したいと思います。

 

・京都という場所をどう考えるか

・人の輪・つながり=人脈地図・(ネットワーク図)を作ったら面白いのではないか?

*戦前の土曜日から続く抗う人々のつながりが残る街、また土曜日に広告を出していたお店、喫茶店のフランソワやよーじ屋などが今も残る京の街。京都という町の磁場はじっくり考えたいテーマです。

 

・光の部分のみ書いてあるが、闇の部分もあったはず。

*ジャテックには脱走米兵を装った米軍のスパイが入り込み、一つの脱走のルートが潰されました。あれはあやしいという疑う声はあったのですが、「査問はしない。助けを求められたら、援助する。」という鶴見俊輔さんの方針が貫かれました。ただこの方針には現場からは異論もあったようです。岩国の反戦喫茶・ほびっともでっち上げの容疑で家宅捜索。京都・今出川のほんやら洞もナシノ木神社爆破事件の関係先としてでっち上げの容疑をかけられ、(家宅捜索があったかどうかは知りませんが)公安警察が出入りする人々を監視下に置くという嫌がらせはありました。私も、えっそんなとこまで知ってるの!?と驚くほど、公安警察が仕事の発注先などへ聞き込みをかけるなどの嫌がらせの身辺調査をキッチリやられました。

 

・福本の書いた文章と語り口には「落差」がある。

書いた文章は読みやすいが、語り口は粗雑、分かりにくい。

*パソコンの画面を見ながら一人で文を書き進めるときは、アガルことはありません。

また書いた言葉をゆっくりと自分のなかで確認・反復する時間があることが助かります。

文章を書くことなどこれまで無縁な、一人印刷機に張り付く労働現場で生きてきました。

対面しての応答は、すぐに答えなければとつい焦ります。焦らず、あがらず、言葉を選び、起承転結を考え、世代間落差を埋める説明を加えながら語れるようになりたいと反省しています。私のなかなか克服できない大きな課題です。

 

・ほんやら洞というフェイスブックに福本さんの若い時の写真が載っていますよ

*探しました。これですかね(ここにはアップできていません)。ギターを持って歌っているのは古川豪さん。隣が40年前ぐらいの私(30歳前後かな)。いつの、どんな集まりだったのか、全然記憶にありません。仕事明けなのか眠たそうな私ですね。

 

・生きた図書館・運動のアーカイブ化ということ

・よく出てくる言葉・キーワード 「後始末」 「結婚」

*「後始末」 提出した文章だけでなく、2年以上火曜会に参加してきた中での私の仕草?、日頃(日常)での在り様の指摘がありました。なるほど、そんな風にしている私がいるんだと改めて気づきました。

*ベ平連運動の生きた図書館といえる関谷さん、そして私のため込んできてしまった資料、映像などなど、どうするのか、・・・アーカイブ化する作業、というのはこれからの大きなテーマとしてあるのかなと思いました。

*「結婚」・・・どん詰まりのなかで立ちすくんでいた私に44歳での結婚という新しい関係・新しい生活を作るチャンスをくれた人との出会いがありました。親以外に一番身近な、しかし一番遠いかもしれない存在と共に生きてゆくことは44歳からの私の手放せない大きな課題です。自信がないので様々な方の生き様、「結婚」から学ぼうとしていることがキーワードとして出てくる、・・・書いてしまうのだと思います。

 

・福本という存在・・・いてくれてよかった

*いてよかったといわれる存在でありたいと思いますが、アタイするでしょうか。

出会えてよかったはお互いさま。感謝です。

 

・小文字の文章は何

*私のココロの声です。

 

・正義を押しつけられるのはすごくつらい。だから、正義でないことに基づいた運動というのを作っていかないといけないんじゃないか、と。それはすごく頭に残っている。

*何人かの方から指摘のあった関谷さんのこの言葉の意味を、レポートに書き写した当初から考えつづけていますが、すぐに答えのあることではないのではないかと思います。

押しつけにならないように、しない事もそうできるように、のびやかな関係を維持すること。そのことを考え続けることでしか答えはないのかなと思います。

このことをもう少し関谷さんが語っておられる資料がありましたので紹介します。

 

関谷:脱走兵を匿っていた家庭が沢山ありますが、匿ったことが一つのきっかけとなって、その後家庭がうまくいかなくなるということがありました。推測すると、おしなべて、男の人がいいかっこして脱走兵を引き受けた。しかし多くの場合、男の人は会社に出て家にいないため、家で面倒をみるのは女の人であるわけです。一番しんどい役割を引き受けた奥さんから、あとになって溜めていた不満が爆発したというようなご家庭はいくつかありました。奥さんは非常に断りにくいんですよね。頭のなかでは脱走兵援助は良い運動だ、良いことだという思いはある。しかし、現実には大変なことを自分が全部引き受けなければいけない。夫は「よろしくたのむよ」の一言だけで何もしてくれない。それをずっと見てきた子どもさんにインタビューをした時「正義を押しつけられると、すごく辛い」、「正義を振りかざさない運動をつくってほしい」、「人間にはいい加減さがあって、そのいい加減さを引き受けながら動く運動であるべきだと思う」というようなことを言われたことがあります。それは今でも通ずるんだと思います。また、やるべきときにはしなければいけないでしょうけれど、一休みありの運動、休んでもいい、やめても構わない、という形の関係で運動をつくっていかないと辛い思いだけが残るということもあると思います。一朝一夕にうまくいくとは思いませんが、そういうことを心がけながら、やっていったらいいと思います。

(シンポジウム「ベ平連運動の時代から現在へ」立命館大学国際平和ミュージアムにて、2014年11月15日、関谷滋さん&大野光明さんによる対談記録より)

 

・脱走米兵を匿ってほしいという依頼は運動と関係がある、ないにかかわらず、突然依頼されることでした。脱走米兵を匿うことを依頼する側からすれば、運動と無縁の方のほうが警察の眼が届かない、届いていないという事で好都合な事だったと思います。

運動とは無縁だから安心(無縁)という事ではありませんでした。

 

10日の火曜会の前に関谷さんへことわりの連絡をしたいと思いながら、日曜日、月曜日と町内会の区民運動会の準備に追われ、連絡を入れる事ができませんでした。終わってからの13日に、関谷さんに「火曜会という会で、関谷さんのことを書き、それで討論をしたのです」と電話で連絡をしました。「書いたものを読みたい」と言っていただけましたので、これから届けます。

「関谷さん私論」でしたが、「関谷さん始論」となるように、今回の報告会で終りではなく、始まりとしたい、第二ラウンドの「関谷さん」を考える会を別の形で企画したいとと考えています。

約半世紀前のことで、若い方にはまだ生まれる前のお話しでした。私の書いたそんな昔話について貴重な時間を費やしていただいた事、貴重な意見を頂いた事へ感謝しています。

ありがとうございました。