火曜会31期の予定

すでに終了しています。

またこの予定のとおり行われたわけではありません。

 

 

火曜会

第31期

 

2018年秋~2019年初春

同志社大学烏丸キャンパス志高館SK201 水曜15時より

冨山一郎

 

 

未来は暗い。思うにだいたいそれが、未来にとって最良の形なのだ。

(ヴァージニア・ウルフ)

 

Ⅰ火曜会

火曜会は、大学院後期課程の「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」としてありますが、それだけではありません。2000年に入ったころから、「火曜会」という名前で、自らの大学院のゼミを行い始めました。当初は火曜日の午後を使って行っていたので火曜会なのでしたが、今は水曜日の午後3時からエンドレスでおこなっています。水曜日なのだが、今も名前は火曜会です。いつしか自分のゼミに様々な背景を持った人たちが集まってきたのが、さしあたりのきっかけだったように思う。

それは試行錯誤のプロセスです。まず浮かび上がったのは、様々な背景を持った人々においては、議論を成り立たせている前提が共有されていないということでした。そして前提を共有しない議論は、すぐさま齟齬を引きおこし、それは対立として定着していきました。またその対立は、多くの場合、学的な権威において抑え込まれ、隠匿されました。あるいは社会運動経験者の運動経験が力を持つ場面もありました。よくある、あれこれいっても現場はこうだというわけです。経験が議論として広がっていくのではなく、経験が議論を制圧するのです。しかし同時に、そこでの試行錯誤や失敗は、学知とよばれる中でなされる議論がいかに不問にされた前提により多くの言葉を予め排除してきたのかということが、ありありと浮かび上がるプロセスでもあったのです。齟齬は、専門家/非専門家の区分や学的権威、運動の現場という言葉において解消されてはならないのです。火曜会での試行錯誤や失敗は、このこうした言葉の姿に対する問いとしてあったのです。

7月にだした『始まりの知』は、こうした火曜会が一貫したテーマになっています。また今述べたような学知や議論の場ということも(ここでその内容の要約を書くことは、なんか中途半端な内容になりそうなので控えます)。火曜会の皆さんには送料等や運ぶ手間賃として500円をいただき、今後にむけての提案(予定のないディスカッションペーパー?)として、手渡しでお配りします(手渡しのみ!)。

『始まりの知』の後、あらためてなぜ火曜会なのかということを考えています。ほとんど堂々巡りのような思考ですが、そんな中でレベッカ・ソルニットの本を、読みました。Hope in the Dark: Untold Histories, Wild Possibilitiesがある(邦訳『暗闇の中の希望』井上利男訳、七つの森書館)という本があります。ここでこのHope in the Dark:について全面的に論じる余裕はありませんが、注目しておきたいのは同書の冒頭にある、ヴァージニア・ウルフの1915年1月18日の日記からの引用です。

 

未来は暗い。思うにだいたいそれが、未来にとって最良の形なのだ。

 

このウルフの一節が示しているのは、未来は明るいのかそれとも暗いかという問題ではありません。未来を希望あるいは絶望と語る時、いずれにしてもそこには未来を定義する解説的な言葉があります。ウルフのこの一節を引用するソルニットは、未来を定義する言葉自体を問題にしているのです。明るいか暗いかを解説するのではなく、先の見えない暗い闇の中で行動すること。ソルニットが確保したいのはこの領域であり、この領域に関わる言葉の在処なのです。そこには明るいか暗いかではなく、「何が起きるかわからない」という未決性がある。この未決性にかかわってソルニットは、あのA Paradise Built in Hell(邦訳『災害ユートピア』高月園子訳、亜紀書房)において、「何が起きるかわからないという」は、「なんでも可能だという革命の教えから、そんなにかけ離れてはいない」と言い切ります。だからこそそれは、「未来にとって最良の形なのだ」。

ところでソルニットはこのウルフの一節を、Men Explain Things to Me(邦訳『説教したがる男たち』ハーン小路恭子訳、左右社)に所収された文章においても引用しています。そこでも要点は、未決の未来である。すなわち、「私にとって希望の礎は、次に何が起きるかわからないということある」のです。だからこそ、Men Explain Things to Meでも、この未決性をしたり顔で確定的に説明してしまう営みに対して、全力で抗おうとしています。ですが、得意げに説明を披露するその顔は、たんに男の顔をしているだけではありません。ソルニットは、このしたり顔の説明をする者たちとして、アカデミアに言及している。すなわち同書の表題のExplainには、学という安全地帯から一般的で客観的に語られる学知による説明も含まれているのであり、そこではソルニットさんは、フェミニズムを学知の問題として考えようとしていると思います。

 Explainには、邦訳にあるような「説教」だけではなく、やはり学的な説明も含まれます。そこにはゼミや学会の場を一方的な説明で支配しようとする者たちが、希望を台無しにしているという問いかけがあるでしょう。同書では、他者の文章への批評ということについて次のように述べています。

 

最悪の批評は、最後の一撃を加えて私たちほかの読み手を沈黙させてしまう。逆に最良の批評は、終わりなど必要ない対話へと開かれている(118)

 

このような対話あるいは議論の場を確保したいのです。またこの個所を読んで『始まりの知』の最後の方で「議論中毒」と書いたことを思い出しました。ここだけ読んでもわかりにくいでしょうが、長文を引用します。

 

しばしば火曜会においては、時間がたつのも忘れて、議論が沸騰する。開始時間のみを定めている理由は、この沸騰を予定された時間割で切断したくないからだ。そして永遠に終わらない言葉の増殖の中で、いつしか言葉が手触りのあるものになり、目に見えるかのような存在に接近し始める。それは、議論をしている空間が別世界の入り口のように感じ始める事態かもしれない。あるいは議論の中で、言葉が渦巻のようにゆきかうのが見え始め、まわりの風景が変わっていくように感じたことはないだろうか。言葉と日常の風景が融合しながら別物に変態していくのである。

この変態の中に、ドキュメンタリーの『三里塚の夏』で武装を議論する農民たちや、自らの力で現実が変わりうるのだということを知る者、すなわち「自分たちの解放は力によってなしとげねば」ならないと呟いた者たちの、言葉の姿があるのではないだろうか。そこでは議論の時間が空間性を帯び始めるのである。こうした議論では言葉を発するということだけではなく、発している者を視る、あるいは議論の場を眺めるという行為が、重要性になるのかもしれない。「視覚器官に向けられるものは、多数の同時的記号を含みうる」(ソシュール)からだ。議論は視覚化されうるのだ。

議論にのめり込み、通常の時間が忘れられ、別の時間とともにその場が変わっていく事態を、共に火曜会について考えてきた鄭柚鎮さんは、「議論中毒」とよんだ。中毒とは禁止されているのにやめられないこと、すなわち巻き込まれ、そしてそれを引き受けていくことに他ならない。その時、時間は時間割で区切られた枠から外れていき、あらゆる予定が台無しになっていく。台無しになる中で人々は、まだ終わっていないと呟きながら、すべての時間を手に入れようとするのだ。これが中毒症状に他ならない。

議論中毒とは、議論が無理に線状とは異なる別の時間を抱え込み始める事態であり、そしてそれは議論を続けるというその一点において、あえていえば議論をするという動詞において、私たちというものが生成していく感触でもある。あるいはそれは、小田実のいう「運動のことば」なのかもしれない。確かに中毒症状は、まったくもって、退屈ではない。そしてこの生成の感触に、中井のいう技術的時間における二重性にかかわる困難を、言葉として抱え込む糸口があるのではないだろうか。

だが、いつも中毒症状が生じるとは限らない。…(『始まりの知』より)

 

Ⅱ構成

今期も、ディスカッションペーパーを前の週の土曜日までに提出することにします。そのあとは、「読む時間(火曜会までに)→話す時間→応答の時間→議論の時間→記録と報告(火曜会の後)」と流れていきます。一回一つのペーパーが限界でしょう。またできうる限り休憩を入れましょう。

映像を見る場合、その映像についての最初の発言者であり案内役がペーパーを書いてください。それを読んできて、映像をみてから、話す時間に入りたいと思います。

また内省の時間として。また火曜会通信はきちんと出していきたいと思います。しっかりと読まれています。

あと、もう一つ重要なことがあります。上でも述べたように、火曜会は視る場でもあり、参加する場でもあります。発表の時だけやってくるのではなく、他者の話を聴く、眺めるということが、そこではとても重要です。それが場という問題です。もちろんこのことは参加資格ということでは断じてありませんが、それぞれの事情の中で留意してほしいことです。

 

Ⅲ話す時間をどうするのか―堆積と線形性

いま事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方について、少し議論をしたい。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を言葉が担っているような感触もあります。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。

ただ問題もあります。次の展開、すなわち全体として議論を進めるのに時間がかかる。体積は、とりあえずはメモすることはできますが、それを一筋の議論、線形性を帯びた議論にするのはかなり時間が必要です。体積はメモとして眺めることはできますが、議論に移行するには時間がかかります。ただ問題の軸は時間がかかるということであり、議論が困難だということではありません。おなかが減り、喉が渇くということです。やり方について私は、試行錯誤の結果手に入れたやり方なのでこれがいいと思っているのですが、またソルニットの「終わりなど必要のない対話」や「議論中毒」の手がかりもそこにあるように思うのですが、体力が持たない。

改善方法としては最初の注釈やコメントの時間を制限するということぐらいしかないように思います。一つは無理を強いる順列からエントリー制と飛び込み制、指名制を導入する。いま一つは、最初の発言を、各自できうる限り準備をして手短にするように心がける。

 

Ⅳ火曜会通信

上に述べましたように火曜会通信を少し重視したいと思います。通信については、(http://doshisha-aor.net/place/190/)。またその文書たちを、順次<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えてられています。既に書かれ通信もここにあるので、ぜひご覧ください。また記録を読むということは、これから少し考えてみたいことです。

 

Ⅴ火曜会の擬態、あるいは背後に張り付く火曜会

火曜会は先ほども述べたように「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つを提案します。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしたいと思います。また今期でしたら定例研究会(第31期)としたいと思います。定例研究会、通称「火曜会」です。二つ目は「火曜会通信」はウェブペーパーとしての「研究会報告」としても使えるようにしたいと思います。定例研究会報告「火曜会通信」。もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。第三に、ディスカッションペーパーですが、この間、ディスカッションペーパーが学術雑誌などになる、あるいは学術雑誌に向けてのペーパーがディスカッションペーパーとして出されるということがありました。火曜会は火曜会通信以外に定期刊行物はもっていません。そういうことを考えてもいいかもしれないとも思いますが、一杯いろんな刊行物を個別に作ることより、既存のメディア環境の背後に張り付くということを考えてみたいと思います。まずは刊行された論文に火曜会で議論したことをどこかで明示していていただくように提案したいと思います。

 

Ⅵ火曜会特別編あるいは別動隊

これまで、火曜会から派生し、火曜会に再帰するような別の流れが何度かありました。この動きはとても重要です。要するに勝手にいろいろな場所で議論の場を作る。それは上記の時間の問題と密接に関わりますが、規模という問題ともかかわります。

 

Ⅶアナウンス

金曜日の3限の日本文献研究では、鶴見俊輔の限界芸術論と漫画論を読みます。4限の沖縄近現代史では、沖縄タイムス社の謝花直美さんの博士論文『復興都市の異音』を読んでみようと思います。あと5限には学部の授業でファノンを読みます(SK110)。よければどうぞ参加してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅷ予定

 

10月10日  報告者 福本俊夫

関谷滋さん私論

 

10月17日      修士論文報告会のためありません

 

10月24日  案内人(報告者) 冨山一郎・福本俊夫

『沖縄十年戦争』(松尾昭典 1978年)を見る

 

10月31日  報告者 姜文姫

北海道における炭鉱の文化運動―太平洋炭鉱の主婦会と『母のうぶごえ』を中心に―

 

11月7日   報告者  小路万紀子

高橋さんへの応答

―ポストコロニアルなスタンスの言表化、言説化、そして関係における現実化の取り組みをどうするか―

 

11月14日  報告者 溝口聡美

占領下にうまれた『混血児』の証言の書きとられ方

 

11月21日  報告者 マレイド・ハインズ

大阪府立婦人会館の学習活動を考える

 

11月28日  同志社の休日です

 

12月5日   報告者 森亜紀子

アメリカ占領下沖縄における農業試験場・普及事業をめぐって

 

12月12日  報告者 山本真知子

「いのち」を思考する現場から/へ

―沖縄と東京の反基地運動における〈当事者性〉の獲得過程―

 

12月19日  報告者 岡本直美

伊江島からアーカイブスを考える

 

1月9日   報告者 猪股祐介

「大陸の花嫁」・「乙女」・「開拓婦人」をめぐる女性の主体化について

 

1月16日 報告者 竹内理恵

反省的実践を書くということ

 

1月23日 報告者 桐山節子

移動する人々と憩いの場

 

1月30日 報告者 佐久川恵美

福島原発事故を噛み砕きのみ込む