火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会第32期の予定

すでに32期はおわっています。

 

火曜会

第32期

2019年春~2019年秋

同志社大学烏丸キャンパス志高館SK214

水曜15時より

 

2019年4月17日

冨山一郎

 

 

 

Ⅰ彫刻的空間

『始まりの知』の最終章で、火曜会について書きました。自分としてはそれが、火曜会の説明文のつもりでしたので、それを読んでほしいと思いがやはりあります。また今日火曜会の説明としてどう書けばいいのか、迷い、いろいろと考えました。『始まりの知』を要約するのも、なんか物足りない。そして春休みの間、つらつらとまた中井正一や鶴見俊輔の書き遺したものを読み、何人かの人と会ってゆっくりと話をしながら、繰り返しを怖れず書こうと思い至った次第です。

少し脱線しますが、相手の顔を見ながら、一方的にならずゆっくりと話をすることの重要さを、春休みに人と話をする中で、あらためて思い出しました。そのことは、これから述べる火曜会とも決して無関係ではありません。中井はあの日本資本主義論争について、「この論争が一つの部屋で一つの真実の究明のために、おたがいの瞳に見入りながらなされたものであったならば……」と、仮定法で述べています。そこには論争の中で敵対し分派していった中井の周りの人々の顔が、まちがいなく想起されていたのでしょう。

思考の内容の対立が、なぜ集団と集団の排外的な敵対になるのか。中井にとって日本資本主義論争は、講座派か労農派かといった理論的内容の問題ではなく、排他的で等質的な集団の問題であり、部屋に留まり続けることができなかったという態度の問題でした。それはたとえば詩人の長田弘が中井について、「中井正一は『考える言葉』というもののあり方に苦しんだ人だったと思う」の述べたのち、「言葉は何を語るかがすべてではなく、どのように語るかということが、何を語るかということそのものを明らかにしてしまう」と続けて記していることとも関係します(長田「解説」『中井正一評論集』)。さらにそれは中井自身が、「いかに生きるかということによって、それが何であるかということをあらわにする」(「芸術の人間学的考察」1931)ということにも通じることです。

「何か」ということの説明を占有するために排他的に争うのではなく、「いかに」という問いを立てることが重要なのです。そして少し先取りしていえば、この「いかに」という問いの背後には、今少し言及した集団という問題が一貫して存在します。すなわち、いかに集団を作り直すのか。

この「いかに」には重なり合う二つの現状認識があります。一つは近代ということ。すなわち自由な個人により生まれた近代は同時に、商品(語)において構成される世界であり、自己を疎外する資本主義を生み出したという認識です。そして中井にとって1930年前後とは、自由と疎外、分裂、あるいは不安定さの対立が極まり、それを無理にでも修復しようとするところに集団が打ち立てられていく時代でした。それを中井は的確に、「塹壕の臭いがする」と述べています(「リズムの構造」1931)。その臭いは過去から漂ってくるものであり、また未来のものでもあったでしょう。「いかに」という問いは、この塹壕の手前において発せられているのです。いま一つ重要なことがあります。次の文章を読んでみてください。

 

すでに我々の時代において、哲学者はベーメのような靴工でもなく、スピノザのような眼鏡磨工でもない。みな一様に教師である。そしてその一部分が原稿執筆者である。そして施策は一つの職業である。そして激しき分業がおこなわれて、大学で分かたれる科目にしたがって分かたれたる学会の学生は、他の科目の研究会に出るのも遠慮を余儀なくされられる。さらに同一科内でも研究対象を漸次局限する。アリストテレス専門、ライプニッツ専門、ディルタイ専門となって、一種の特権的優先をもとうと試みる。あるいは研究の問題もまたそうである。一種の縄張り的現象すら生じて、在る場合は研究資料の独占という方法も生じてくる。ヘルダーリンの言葉「哲学者はいるけれども人間がいない」嘆きは今、まさにあてはまる。それらのいわば戦術によってようやく才能を認識され就職にまでたどりつくのである。かつて文科関係学校の収容人員を半減することを決したる文部省の考えかたにはその意味で意義深きものである。好景気時代に二倍にした学校数によって、不景気が来た時、卒業生の売込みに困難を生じたるがゆえに、ここに卒業生を半減にするにいたるのは、まさに思想才能の操短化である。真の思想的危機はかかる取り扱いそのものの中に伏在するのである。思索機能の商品化は今すでに文部省的機関すらもがどうすることものできないことを露呈するにいたったのである。かかる一切のことより、思想の官庁的措定、販売的制限がおこなわれるにいたる。そこことは既に思想的存在が年を経るとともに一つの類型化標準化をもつことであり、それみずからのへの批判―哲学の最大の任務であるところのーがようやくにして霧消しはじめることを意味する。それは実に思想そのものの危機ですらある。

 

この文章は1932年に雑誌『理想』に掲載された「思想的危機における芸術ならびにその動向」と題されたものです。この文章に最初に出合った時に私はあまりの明晰さに驚愕してしまいました。中井の記した哲学のところに人文学あるいは学知という言葉を入れて読めば、ほとんど今につながるといっていいでしょう。そして中井はこうした大学をはじめとする学知をめぐる集団の状況を、利潤的集団主義とよび、そこでは専門と専門の外が「精神的貴族化」と「俗衆」の関係になるといいいます。つまり専門の権威を所与の特権と勘違いして振り回し、それ以外については「専門ではない」と弁明したうえで全くの関心を示さず知ろうともしない態度をとる。したがって結果的にその集団はおたがいが「俗衆」であるような集団であり、「おたがいが大衆である」ことに気が付かない。また付け加えるなら、1930年代は、分野にもよりますが、学術振興会をはじめとして利害誘導的な学知の再組織化が具体的に進みだす時期でもありました。それは、1945年をはさみながら拡大する一方です。

こうした現状認識の中にあって、真理を語る、正義を語る、希望を語る、社会運動を語る、革命を語るといった際に、中井がこだわったのは、その内容的意義ではなく、語る行為においていかに集団を再度作り直すのかということでした。いいかえれば語られる対象としての社会や集団とその分析を切り離すのではなく、つまりイシューとして何を取り上げるのかということに議論の中心をおくのではなく、そこに「いかに」という問いを立てることにより、思索する行為自体においていかなる集団性を作り上げることができるのかという問題を開いていくです。運動にひきつけていえば、思索自体が新たな集団をそして運動体をになうのであり、希望にひきつけていえば、思索するという行為自体が新たな希望を確保するのです。それは、たとえ良心的な思いがあっても、「いかに」ということに問いを立てることなく、いいかえれば利潤的集団主義を追認しながら語られる未来計画への、根源的批判です。こうした未来では排他的で等質な集団しか生まれないのでしょう。中井を案内人して説明した『始まりの知』における火曜会も、こうした批判的試みとしてありました。また「いかに」に焦点を定めようとする中井の状況認識には、近代とともに、この俗衆化という「思想的危機」があったのです。乱暴な言い方ですが、これも現状認識としてあります。

ところでこの「いかに」ということに関わって中井が注目したのが、芸術ということでした。それは先の文の表題である「思想的危機における芸術」ということともかかわります。『始まりの知』では、あの「委員会の論理」を中心に据えて火曜会を考えたのですが、いまこの芸術から、知と集団ということを考えてみたいと思っています。今日はまだ全面展開はできませんが、この点に関わって一つだけ論点を書いておきたいと思います。

中井は「委員会の論理」で検討した審議すなわち議論を、芸術としての彫刻にたとえ、言葉のやりとりの場を彫刻的空間とも述べています。それはあるテキストを正しく受容するための場、すなわち真理を伝達する場ではなく、それぞれが自分を媒介にして最初の提案を受け止め、又投影してく中で浮かび上がる集団制作のような場です。中井はこの彫刻的空間での人々の営みに関わる感触を、「構成の感覚」あるいは「生産感」とのべました。この受けとめ(「被投」)そして「投企」するという受動と能動がショートするような接点に、「うつす(写すー映す)」あるいは「聴くー話す」「読む―書く」という表現に関わる動詞をすえるのです。そこでは一方的な伝達ではなく受け止めると同時に映し出すのであり、その繰り返しにおいてその場は彫刻的空間になるのです。そこでは誰しもが彫刻の鑑賞者であり、また同時にその製作者でもあるのです。

この「被投」と「投企」の漸近するギリギリの領域を確保し続けること。中井はそれを、「あらゆる偶然を、力学的力点として歴史の中に置いて見る感覚」(「現代における美の諸性格」)と述べ、「新しい感覚」にひきつけながら何とか言葉にしようとしています。事実感、生産感、構成の感覚、組織感、生成の感覚、積極的リアリズム、あるいは飛躍の悦楽。この感覚にひきつけるところには、中井が特高の観察下におかれながら、「生死の問題が眼前に現れている」者たちにとって、「客観的一般性」をおいもとめ、ただ正しく説明をしようとすることを「すでに安易なるものがある」とのべ、「自分を支える最後の力になってくれぬ」と記したことにもつながります。未来は説明されるのではなく、獲得するものであり、獲得という動詞にまつわって生じる感覚を手放すことなく身に纏うことによって、逆に獲得するということを複数の行為として見出そうとしているのでしょう。

そして「被投」と「投企」の両者が漸近するギリギリの領域に確保される感覚に、「この世ははたしてよくなっていくのだろうか」という内省的な思いを挟み込ませるのです。いわば一人ひとりが自分を媒介としながら、受動性から能動性へと身をひるがえす瞬間に、新しい感覚をとともに過去への内省と未来への思いを確保するのです。それを中井は、歴史を「歴史的主体に手渡す」(『美学入門』)とのべ、そこで生じる「はたしてよくなっていくのだろうか」という思いの中で浮かび上がる彫刻空間が含みこむ時間を、「時計的俗衆的時間」に対して「前のめった歴史」(『美学入門』)と述べているのです。また中井はこの彫刻的空間を演劇に例えながら次のように述べています。

 

観衆はその言葉を無限の方向からそのおのおのの立場のもとに受け止める。また往々にして劇作家は、自分のうちに多くの立場をもてるものである。(「芸術の人間学的考察」1931)

 

劇作家の最初の言葉は、既にこうした集団制作を前提にして成立しているというのです。彫刻的空間における複数性を自らの内部に先取りしながら最初の文書を書く。私はここにディスカッション・ペーパーの意義を見出したいと思います。ところで昨年度の秋学期、金曜日の演習で鶴見俊輔の漫画論について考えました。

 

マンガは、私にとって、正しい思想に通俗的表現を与える方法ではなく、思想に自由をたもつ方法として大切である。マンガとして自分をみたい。

 

鶴見が漫画をこのように述べるとき、そこには意外かもしれませんが、思想の内容の問題ではなく思想に対する「いかに」という問いとして漫画があることがわかります。では漫画を書くあるいは読むということはどういうことなのでしょうか。そこに登場する空間を鶴見は「読者―作者共同体」と述べるのですが、それは漫画というより紙芝居の世界です。そこでは読むあるいは聞くということは、「話の聞き手としての自分」が「現実に自分をとりまく聞き手の複合として生まれてくる」といいいます。また書くとは「集団の欲求に応じて、その集団内部の誰かが、絵をかいたり、歌ったり、物語をしたもの」。個は集団とともにあるという、ありきたりのことを鶴見はいっているのではありません。すべての個は新たな集団生成の始まりなのです。集団はそれぞれが読むことにおいて新たに「生まれ」、書くことにおいて、先取られるわけです。「読者―作者共同体」では、個は既に集団性を予感しており、さらにそれは動態として、中井の言い方を借りれば「前のめった歴史」にあるということなのかもしれません。その歴史は、一人一人が集団化の多焦点であり続けるような展開です。ここにおいて、次のような鶴見の不可思議な記述が少しわかる。

 

紙芝居は、現代の芸術の中ではすぐれて、作家個人の著作権が意味をなさない世界である。こうして、紙芝居の世界での創造とは、匿名の何人もの人間が観客をもふくめてあつまり、ちり、おしあいへしあいするうずの中から生まれる。その時に、誰と誰とがどういう協力関係となって、創造が行われるのかを、匿名の一人の参加者は、ついに知る事ができない。

 

注釈を加えるなら、誰と誰が協力関係になっているのかはわからないが、匿名の一人ひとりの参加者は、集団の動態を担っているということを自分なりに知っているのではないでしょうか。わたしはここにどうしても中井のいう彫刻的空間を重ねてみたくなります。あるいはおたがいが「俗衆」である状態から、「おたがいが大衆である」未来へ動き始めること。そしてディスカッション・ペーパーを書くということは、中井のいうような演劇を書く、あるいは鶴見のいうような漫画を書くことなのでしょう。

最後に、中井の文章を読んでその文章に刻まれている日付に、やはり驚愕します。年代を見てすぐさまファシズム期と簡単にいってしまう前に、中井が立てた問いは、「売出的な叫び」と「一方的な説教」が蔓延し、言葉がカラカラと軽い音を立てながら回転していく中で、「人は話し合いをしなかった」言葉の状況において(『土曜日』1936年10月20日)、いかに話すのか、書くのか、議論するのかということだったのではないでしょうか。だからこそ、その問は今において継続しているように思います。市民的自由を前提にしてファシズムを言論弾圧として一括してしまう前に、自らの言葉を立て直す作業が今も求められているのであり、そして人の集まりが「塹壕の臭い」をかもしはじまる中で、いかなる集団を作り上げるのかという問いを今正面に据える必要があると、私は思っています。学知とはこの問いに関わる営みとしてあるのではないかと思います。

 

Ⅱ構成あるいは被投という領域

次に進め方についてです。これまでの試行錯誤の中で獲得されたものですから、先ずはその確認から。

今期も、ディスカッション・ペーパーを前の週の土曜日までに提出することにします。そのあとは、「読む時間(火曜会までに)→話す時間→応答の時間→議論の時間→記録と報告(火曜会の後)」と流れていきます。一回一つのペーパーが限界でしょう。またできうる限り休憩を入れましょう。

映像を見る場合、その映像についての最初の発言者であり案内役がペーパーを書いてください。それを読んできて、映像をみてから、話す時間に入りたいと思います。

また内省の時間として。また火曜会通信はきちんと出していきたいと思います。しっかりと読まれています。

あと、もう一つ重要なことがあります。上でも述べたように、火曜会は聞く場でもあり、参加する場でもあります。つまり、「被投」ということは極めて重要な出発点になるのです。ですから他者の話を聴く、眺めるということが、そこではとても重要です。それは既に彫刻空間を生み出しています。またいいかえれば火曜会をただの発表の場だとみなし、自分の発表だけをして他は参加しないというのでは、彫刻的空間は成り立ちません。もちろんこのことは参加資格ということでは断じてありませんが、それぞれの事情の中で留意してほしいことです。また自分の話す内容ばかりに気をとられ話を聞かない、あるいは他者の発言や報告と関係のないところで自己主張を準備する態度も、彫刻的空間の起点である「被投」ということを、ないがしろにすることにつながるでしょう。

 

Ⅲ一人ひとりの「私」と「構成の感覚」

いま事前に文章を読んできた後、一人ひとり順に注釈やコメントを話すようにしています。このやり方について、少し議論をしたい。このやり方において見えてきたのは、言葉が堆積していく面白さです。しかもその言葉たちが、順に回すという力によってなされているので、しばしば「無理にでも」話そうとするという性格を帯びるため、ある種の受動性が能動性に転化していくような出発点を一人一人の言葉が担っているような感触もあります。すべての参加者の「私」が出発点になっているのです。こんな言葉が、私たちの前の空間に次から次へと降り積もっていくのが、面白いのです。そしてその面白さが、「構成の感覚」につながっていきます。彫刻空間。

ただ問題もあります。次の展開、すなわち全体として議論を進めるのに時間がかかる。堆積は、とりあえずはメモすることはできますが、それを一筋の議論、線形性を帯びた議論にするのはかなり時間が必要です。堆積はメモとして眺めることはできますが、議論に移行するには時間がかかります。ただ問題の軸は時間がかかるということであり、議論が困難だということではありません。おなかが減り、喉が渇くということです。また「終わりなど必要のない対話」(ソルニット)や「議論中毒」の手がかりもそこにあるように思うのですが、体力が持たない。

改善方法として、前回から「パス」ということを気軽にいおうということがありました。これは続けたいと思います。また最初の注釈やコメントを、最初の「読む時間」において各自できうる限り準備をしておくように心がけるというのもいいかもしれません。それに加え、本人の最初の説明は基本的に無しにして、最初の口火を切る発言者だけは決めておくというのはいかがでしょうか。

Ⅳ火曜会通信

上に述べましたように火曜会通信を少し重視したいと思います。通信については、(http://doshisha-aor.net/place/190/)を参照してください。またその文書たちを、順次<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えてられています。ぜひご覧ください。また記録を読むということをどのように設定していくのかについては、これから少し考えてみたいことです。

 

Ⅴ火曜会の擬態、あるいは背後に張り付く火曜会

火曜会は「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」でもありますが、さらに対外的に使える形式として次の三つを提案します。一つは、火曜会を同志社大学<奄美―沖縄―琉球>研究センターによる「定例研究会」の通称としても使えるようにしています。また今期でしたら定例研究会(第31期)としたいと思います。定例研究会、通称「火曜会」です。二つ目は「火曜会通信」はウェブペーパーとしての「研究会報告」としても使えるようにしたいと思います。定例研究会報告「火曜会通信」。もちろんこのような名称を用いるかどうかは、自由です。基本的には「火曜会」は「火曜会」なのであり、カリキュラム上の科目でもなく、「定例研究会」でもありません。ただ擬態を用意しておこうという訳です。第三に、ディスカッション・ペーパーですが、この間、ディスカッション・ペーパーが学術雑誌などになる、あるいは学術雑誌に向けてのペーパーがディスカッション・ペーパーとして出されるということがありました。火曜会は火曜会通信以外に定期刊行物はもっていません。そういうことを考えてもいいかもしれないとも思いますが、一杯いろんな刊行物がある中にさらに一つ作ることより、既存のメディア環境の背後に張り付くということを考えてみたいと思います。まずは既存のメディアに掲載された場合には、火曜会で議論したことをどこかで明示することを提案します。

 

Ⅵ火曜会特別編あるいは別動隊

これまで、火曜会から派生し、火曜会に再帰するような別の流れが何度かありました。この動きはとても重要です。要するに勝手にいろいろな場所で議論の場を作る。それは上記の時間の問題と密接に関わりますが、規模という問題ともかかわります。鶴見が中井を論じた文章で「思想の発酵母胎」(『思想の科学』1959年7月)というのがありますが、そこでも規模の問題に言及しています。鶴見はそこで、規模が大きくなりすぎると「誰かの無理」によって支えられることになり、また運営も「翼賛会的」になると指摘しています。規模拡大がめざすべき方向ではありません。多焦点的に拡張することが重要なのです。

 

Ⅶアナウンス 火曜会特別編

5月18日13時より冨山一郎『始まりの知』(法政大学出版局 2018年)の合評会を行います。上野俊哉さん、田仲康博さんもきます。参加者はコメント文の用意を。詳細はまた。

Ⅷ予定

 

4月24日        報告者 桐山節子

地域調査と研究者

 

5月8日         報告者 姜喜代

「なぜおかずをたくさん作ってしまうのか」を考察する

 

5月15日        報告者 謝花直美

沖縄戦から占領初期における、那覇市出身者の身体と生存

 

5月22日        報告者 森宣雄

唄で歴史♪

 

5月29日        報告者 安里陽子

プラナカン文化の商品化から考えるシンガポールの歴史

 

6月5日         報告者 西川和樹

栄養士と料理家と戦争

 

6月12日        報告者 福本俊夫

尹東柱の死を考える

 

6月19日        報告者 松谷実のり

ジェンダーとエスニシティが交錯する中での排除と包摂

 

6月26日        報告者 沈正明

記念碑を考える

 

7月3日         報告者 加藤ヒロキ

花田清輝、もう一つの修羅論

 

7月10日        報告者 猪股祐介

満州移民体験の語り継ぎに関する地域比較研究

 

 

7月17日       報告者 岡本直美

「島ぐるみ」闘争の象徴を考える

 

7月24日       報告者 増渕あさ子

<社会福祉>の現場から眺める沖縄「占領」と「復帰」

 

この日は打ち上げパーティーをしましょう