火曜会(第23期 2014年秋冬)の予定
すでに終了しましたが、「第22期(2014年春夏)の予定」を掲載します。
毎週水曜日(15時より 同志社烏丸キャンパス志高館SK201)
冨山一郎
研究とは、「まだ見ぬ地平」を探ることだと思います。「まだ見ぬ地平」とは、研究対象であり、かつ自分自身のことです。人文系はとくに自分自身が重要だと思います。なぜある問題に興味をもつか。それは、それに反響している自分がいるからです。そのときどきに論文として発表するものは、たとえ稚拙なものであろうとも、自分を押し広げるという意味で、大きな可能性を秘めていると思います(竹村和子 小森陽一監修『研究する意味』(東京図書、2003年)所収)。
夏休みの宿題として、第22期に読んだ竹村和子さんについて文章を書きました(http://wan.or.jp/book/?p=8128)。その中で出会った竹村さんの言葉です。どこにも出かけなかった今年の夏休みでしたが、研究行為あるいは知るということが何をなす行為なのかについて、また、あれこれと考えておりました。大学についても考えました。今年学校教育法が改「正」され、制度的には2004年の国立大学の法人化とともに今が大学の大きな転換点であることはまちがいありません。そのような状況を念頭に置きながら、短いエッセイを書きました。(「Oさんのいる大学」http://doshisha-aor.net/place/226/)。
ところで、まえの第22期の最後に、大学について議論する機会がありました。その時読んだ既に大学論の古典になりつつあるビル・レディングスの『廃墟の中の大学』は、今の大学の状況を念頭に置きながら、もう一度読み返すべき本だと思います。いま大学の制度にかかわってキャッチコピーのような用語が氾濫していますが、「グローバル」もその一つでしょう。また「エクセレンス」ということばもありました。レディングスは次のように述べます。「「エクセレンス」は、それが「内容」を持っていないという点で、金銭的(キャッシュ)結びつき(・ネクサス)と似ている。したがって、エクセレンスは正しくもなければ誤りでもなく、無知でもなければ自意識的でもない」。正しいかどうか、あるいはそこにどのような意図があるかは、どうでもいいのです。重要なのは、内容がないということが、すべてを包含できるということでもあるという点です。つまりすべてに対して「ものを測る方法を優先させて、価値の問題を括弧にくくる、つまり、説明義務や責任の問題を計算による解決に置き換える」のです。それ自身内容がなく、内容がないがゆえに、あらゆる領域を一つの基準で評価し、その評価にそって統治し、経営する。そこでは討議、説得、合意といった言葉は必要ありません。こうした展開は知識を企業活動に目的意識的に利用するという意味での産学協同ということとは少し違います。またよくいわれた人的資源を生産するという意味での教育機関ということでもありません。あえていえばそれは、投資活動の未来予想に似ています。何かあるかもしれないという希望を、評会軸に置き換え、リスク・マネージメントの中で未来をとらえる。今広がっているのはそのような思考であり、振る舞いであり、制度です。あえていえば、考えるという行為そのものが奪われているように思うのです
こうした制度的な動きに対して、既存の制度の維持や、新たな制度の創出を掲げることは、確かに必要な事かも知れません。しかしそれが代案を出せというせっかちな発想に毒されてしまうと、やはり問題だと思います。維持し続けることや新たな創出は、プロセスなのであって、選択枝として待機している訳ではありません。鶴見俊輔は「代案を出せ」という強迫に対して「代案を出すな」とあえて延べ、代案主義を批判します。大学という制度の変化に対しては、知るということが何をなす行為なのかという問いを確保し続けることこそが、重要だと考えています。新たな制度を創出するプロセスを維持するためにも、この問いは必要でしょう。
人と人が繋がっていく際、その人が存立している既存の秩序を反復することと、その秩序が、今生じている繋がりの中で別物に変わることが、同居しています。ビフォは繋がるという行為における前者への傾向が「何ものかであれ」(Be)という秩序的要請であるとした上で、後者への展開を「連累せよ」(Concatenate)と表現しています(フランコ・ベラルティ『プレカリアートの詩』櫻田和也訳)。この連累は、既にある集団への帰属ではなく、新たな集団性の生産なのでしょう。そして知るという行為は、この集団性の生産としてあるのではないでしょうか。知という領域と、知るという行為において織りなされる生産過程。そこでは、設計された未来を研究するのではなく、研究すること自体が未来を作るのです。このような事を考えながら、これまで自分が行ってきたことをふりかえり、火曜会についてもあれこれ考えた夏でした。以下、これまでの繰り返しになりますが、確認も含めて火曜会について説明します。
Ⅰ趣旨
知や知的営みは、私的所有や個人業績(量)において意味づけられるというよりも、また私的所有物としての知を前提にした社会のニーズや社会的影響、あるいは所有者(知識人)による啓蒙ということでもなく、知それ自体が他者との関係性や集団性にかかわる行為遂行的な営みであり、意味作用なのではないか。と、信じてはじまったのが、火曜会なのかもしれません。
またそれは、大学という場所が持つ可能性なのかもしれません。火曜会が大学のカリキュラムとしての制度を手放さない理由もそこにあります。今期も、グローバル・スタディーズ研究科の「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」としてもあります。大学は、職場や会社でもなければ研究所でもありません。学生・院生からみれば明らかに流動系であり、それは人々が行き来する路上にも似ています。また先ほどレディングスにそくして述べたように、いま大学で起きている事態は、大学の外に出れば解消できるというものではありません。むしろ大学の内と外という区分を越えて浸透している事態であり、こうした状況においてあえて大学という問いを手放さないということが、今述べた「大学という場所が持つ可能性」ということでもあるのです。この制度と共にあり、かつ制度を絶えずはみ出し続けるというところに、火曜会の趣旨を考えるポイントがあるように思います。
Ⅱ形式
書かれたものを丁寧に読むことによる関係性の創出(精読会)と、必ずしも書かれたものに限らない媒体(今それを報告と呼びます)による関係性の創出(討議空間)に分かれます。両者の違いは主として時間性にあります。精読会はやはり一定の継続性が必要になります。対して討議空間は、ライブ感あふれる一回の報告が軸になります。両者が互いに相乗すればいいのですが。
Ⅲ討議空間の報告について
それは業績報告や啓蒙の場ではありません。論文執筆や学会発表ののちの報告というより、そのプロセスを共有することを考えてください。「○○のことは××なら当然知っているはずだ」的な態度は、やはりレッドカードです。複数の「××」が別物に変わっていくための討議なのですから。集団性の追認あるいは保身ではなく、創出がポイントなのです。またこのことは精読会でも同じです。報告は、共有するために、いろいろと工夫をしてください。とりあえず丁寧な説明と時間をかけること。議論の時間規制において排除してきた人や事柄を、蘇らすことが大事なのです。そのためにも、報告という媒体を担おうとする者(報告者)は、一週間前には不十分でもいいですからアナウンスをお願いします。また読むべき文章等も原則一週間目には配布してください。 てまひまかけること!
Ⅳ精読会について
精読会にはメンバーシップがあります。文章をあらかじめ読んでくることと、原則的には継続的に参加することです。
Ⅴ火曜会複合体
(1)橋渡し発題者(minute taker) 第20期に、精読会にかかわって、議論の継続性を維持するために橋渡し発題者を毎回少なくとも一人決めました。前回の議論あるいは前回議論したテキストの個所に対して、自らが思うこと、考えること、感じることなどを文書で提示する作業を、議論の最初に行う人です。一般的なまとめではありません。ただ21期以降では、前回の議論というより、前回の議論をふまえた最初の発言者ということが強調されたように思います。今期も継続して行いたいと思います。大切なのは議論のライブ感であり、議論の過程で見えてきた身体感覚を議論として継続させることのように思います。議論する身体性を維持する工夫です。
(2)「火曜会通信」(別紙資料 http://doshisha-aor.net/place/190/)
報告者は短くてもいいですから、議論にかかわる文章を書いて下さい。またその際、報告者以外のメンバーにコメントを依頼してください。依頼された人も、短くてもいいですから、コメントを書いてください。いわば、期の初めの予定表、一週間前のアナウンスに加え、報告とコメントを行うことを議論の一貫としてあらかじめ設定するということです。また「短くても」というのは、たとえば800字ぐらいを念頭においています。そしてその文書たちを、<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えていきたいと思います。これまでの通信については、http://doshisha-aor.net/place/192/ならびにhttp://doshisha-aor.net/place/197/をご覧ください。
(3)別動火曜会と火曜会特別編 以前川村邦光さんの『弔い論』を読む会が、最初の一回と最後のしめの回を火曜会として行い、その間は別動の会として永岡さんを中心に継続的に行われました。こうした別動的展開も考えたいと思います。たとえば以前から日高さんから青木深『めぐりあうものたちの群像』が提起されています。また22期には、火曜会として田沼幸子さんの『革命キューバの民族誌』を読む会と『流着の思想』を読む会をおこないました。こうした特別編も考えましょう。具体的には10月28日17時よりを考えています。「ベイエリアの磁場」?
(4)火曜会アーカイブ 火曜会通信のところでも述べましたが、<奄美―沖縄―琉球>研究センターのホームページに火曜会アーカイブの場所を設定しています。火曜会にかかわる文書で、公表してもいいものはここに蓄積しようと思います。(http://doshisha-aor.net/place/)。
Ⅵ予定
以下23期の予定です。表題は仮です。また報告についてのコメントめいた文章は、私が勝手に書いたものです。どうかご容赦ください。また各自一週間前に再度メーリングリストにおいてアナウンスをして下ください。その際、訂正なども。
10月15日は 修士論文中間報告会のため休みです!
10月22日 精読会
ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』(佐藤嘉幸・清水知子訳)月曜社(Judith Butler, Giving an Account of Oneself, Fordharm University Press, 2005.)を読みます。「私は…」という文言をあえてかかなくても、私という存在は、あらゆる叙述や説明に既に刻印されています。しかしそれは、いわゆる個人ではありません。自分自身を説明する言葉が繰り出される時、私は傍らにいる他者とともに生まれるのです。この本は、一度読んだ人もいるでしょうが、再度じっくりと議論しましょう。人文学にしろ社会科学にしろ、この私という問いから逃れられる領域はありません。またこの問いは、当事者や現場といった領域にもかかわることはいうまでもないでしょう。またあえていえば、この問いを、すぐさま当事者や現場という言葉に置き換えてはならないでしょう。まずは第1章から。
10月28日(火曜日)火曜会特別編(17時より 志高館SK289)
ウェスリー上運天 「ベイエリアの磁場」
その後演奏あり、番匠健一さんとのコラボも!
10月29日 討議空間
戦後広島を書く/描く
(Ⅰ)西川和樹 「原爆ドームと芸術」
(Ⅱ)荒川理沙 「『中国新聞』を読む」
原爆が投下され、放射能で汚染された廃墟を前にして、書く/描くという行為は、何をなそうとしたのでしょうか。広島を書くこと、あるいは描くことは、おきてしまった過去にかかわる表現ではありません。重要なのは、何がおきたのか、そして何がこれからおきつつあるのかという問いです。私たちの前に残された広島をめぐる表現たちは、おきたこと、おきつつあることを何とかして人間の表現にとどめようとする未完のプロセスなのかもしれません。ならばそれを論じる私たちは、そのプロセスにどう向き合いそして継続させていくことができるのでしょうか。あるいは、次のようにパラフレーズしてもいいかもしれません。瓦礫になった原発を前にして、何がおきたのか、そしてこれから何がおきつつあるのか。この問いを放棄した時から、書くこと/描くことは、酷く陳腐なものなるのでしょう。それはまた、あの「テロとの戦い」の大合唱の中で辺見庸がつぶやいた「言葉の無効」でもあるでしょう。
11月5日 討議空間
(Ⅰ)安里陽子 「境界から語る歴史の可能性―パインブームの記憶から考える」
トニ・モリスンの小説『ホーム』の冒頭には、詩がおかれています。「ここは誰の家?」で始まり、最後は「ねえ、教えて。どうしてその鍵穴は私の鍵に合うの?」(Say, tell me, why does its lock fit my key?)で終わっています。境界は遮断する壁(それは反対に自由な往来を想定しています)ではなく、通過した後に、本当に私は通過したのかという内省的な問いと共に見いだされる痕跡のようなものかもしれません。あるいはホームの中にいると思い込んでいたことが、問いにかけられることかもしれません。この問いの中で歴史を再度発見することは、ホームをあたりまえの前提にしたものとは異なる歴史になるでしょう。パインブームの中で、複数の境界を跨ぎながら石垣島に到来した人々。この人々がつくりあげる歴史とは、またその歴史を記述することとはどのような営みなのでしょうか。楽しみです。
(Ⅱ)柚鎮 「当事者とは誰のことか」
当事者である、あるいは当事者でない。この区分けは、結論ではなく出発点です。また区分けを無効にする、より普遍的基準が準備されている訳でもありません。またさらに、当事者という領域は、様々な言葉におきかえられて、ある自然化された磁場をつくりあげるように思います。たとえば具体的ということ、あるいは現場。この自然化された領域はまた、精読会で読むジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』でバトラーが問おうとしたことでもあるでしょう。問題は当事者にしがみつく硬直した記述であり、こうした記述において浮かび上がる「当事者ではない」という立場なのかもしれません。そしてこうした記述は、あるいは立場は、ある意味で既存の秩序として既にあります。だからこそ、当事者をめぐる区分けは結論ではなく、それ自体議論すべき出発点なのです。議論のために、ハンギョレ新聞に掲載された藤井たけしさんの「『現在』を問うということ」(2014年6月29日)を中心に、藤井たけしさんの書いたものを読みます。
11月12日 精読会
ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』を読みます。
11月19日 精読会
ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』を読みます。
11月26日 討議空間
(Ⅰ)岡本直美 「1950年代沖縄土地問題―伊江島の生活補償をめぐる折衝」
沖縄をめぐって島ぐるみということが、現在も登場しています。私はこの島といういいかたを、利害の隠ぺいとして批判することも、土着の動因として宣揚することも、どちらも違うと思っています。島ぐるみ闘争という表現で一括されてしまう1950年代沖縄の土地闘争ですが、そこには多様な利害の中で運動を構成していく粘り強いプロセスが、間違いなく存在します。島とはこのプロセスとしてあるのではないでしょうか。そもそも交渉のテーブルが用意されていないところから、伊江島の農民たちは「話し合い」という空間を作り上げました。夏の伊江島調査でさらにパワーアップした岡本さんの報告です。
(Ⅱ)李秀珍「戦前の社会的科学論について―戦後の批判的科学論を問い直す視座から」
戸坂潤の「科学論」(1935) と「技術の哲学」(1933)を読むことから議論を始めます。戸坂の科学論は同時に経験という領域へのぎりぎりの肉薄です。たとえば私は次のような戸坂の言葉にしびれてしまいます。少し長いですが引用します。「経験は個人が経験したということ以外に、個人がやがて経験するだろう処の、そして更に社会の人間が多分経験しただろう又経験しているだろう又やがて経験するだろう処の、否、皆がその条件さえ与えられれば必ず経験するはずである処の、内容であらざるを得ない。で経験はそれ自身に、超経験的な、或いは先経験的な、即ちもはや経験論的ではない処の、或るものをふくんでいる、ということになる」(戸坂潤「科学論」)。それは安易な経験主義への批判であり、人の経験を根拠にして語る歴史や政治への批判でもあるでしょう。どのような議論になるのか楽しみです。
12月3日 討議空間
佐々木薫 「United in Anger(Jim Hubberd 2012)を視る」
前期の案内の冒頭でも述べましたが、共に映像を視て議論をすることは、一つの映像を視るという共通の、そしてそれぞれが異なる経験たちが、言葉を構成してく実践に他なりません。レイ・チョウはこうした実践を「理論化」と述べました。すなわち「視覚映像との出会いがどのような変化を引き起こしたか」という問いを立てることこそが、理論化なのです。それは一人ひとりが、共に視たことを言葉において再演することでもあるでしょう。目撃者は、目撃していない人に情報を与えるインフォーマントではなく、それ自体が行為者なのです。さあ、共に「United in Anger」を視て行為者になりましょう。その時一体何がおきるのか。映像は、米国のHIV/AIDS運動の歴史にかかわるドキュメンタリーです。とてもおもしろく、また力強いドキュメンタリーだそうです。
12月10日 討議空間
(Ⅰ)南 彩夏 「錯綜するグローバル人材」
グローバル人材は、本当に不思議な言葉です。 口をそろえて唱和される一方で、その内実は、別に新たに「グローバル人材」なんて言わなくてもいいようなものが多いです。いいかえれば内実はつかみどころがない。ですが、にもかかわらずこの言葉は、働くという人にとってとても大事な営みに深く関与し、それをまとめ上げたり、評価しようとします。空虚さと極めて具体的な場への関与。このアンビバレントな領域を浮遊するグローバル人材を、南さんは「錯綜」と述べたのかもしれません。そして働くということに関わる以上、働く者たちの言葉として再度獲得しなければならないのかもしれません。
(Ⅱ)グレゴリー・ケズナジャット 「『独探』を読む」
谷崎純一郎の短編小説『独探』(1915年)を読みます。谷崎は、私はあまり読んだことはありません。ただ、耽美的と称される谷崎ですが、その思想や政治を凌駕するフェチ的執着や、京都、大阪、神戸への偏愛的愛着がいつも頭にひっかかっています。そこにはある強度が存在するように思うのです。グレゴリーさんがどんな話をされるのかとても楽しみです。ちなみに谷崎のお墓は、哲学の道の近く法然院にあります。
12月17日 討議空間(この日は3セッションです。終了後忘年会!)
(Ⅰ)佐藤祐太郎 「現代を生きる奴隷制」
奴隷制は過去のものでも、限定された地域のことでもありません。オルランド・パターソンの奴隷制にかかわる古典的名著『世界の奴隷制の歴史』からもわかるように、それは生と死にかかわる統治の問題であり、したがってまたフーコーの生権力、あるいはそれをさらに展開させたムベンべのいうネクロポリティクスにかかわっています。奴隷制を「社会において社会的死を社会において析出する」こと、あるいは「生きながらの死」であるとパターソンは同書で記しています。そこから浮かび上がるのは、やはり今の問題です。アフリカのマリ共和国の話から、奴隷制について議論しましょう。
(Ⅱ)小路万紀子「共生をめぐる民族主義と地域経済の相克―80年代大阪における青年会議所活動」
保守あるいは右翼という言葉を、研究者は安易に使っているのかもしれません。そのようによばれる人々や組織の、現実生活に根差したリアルな活動は、政治的対立を越えて浸透しているのではないでしょうか。それはまさしくこうした活動が、「経済」と「地域」に密着していることに起因しているからなのでしょう。そして今日の排外主義の潮流も、こうした保守あるいは右翼の活動とともに検証する必要があると思います。またこの活動は一枚岩ではなく、対立と打算に満ちたものです。そして最も重要な点は、たとえ対立していても、「経済」と「地域」に密着している限り、それは政治化せず、順当に事が進んでいるように見えることです。問われているのは、やはり、批判しようとする者たちが使う保守あるいは右翼という認識それ自体なのでしょう。
(Ⅲ)福岡弘彬 「堕落と運命―坂口安吾と保田與重郎」
運命は選べるのでしょうか。この言葉の近傍には、宿命という言葉控えています。この「運命―宿命」の中にあって、自らの生を確保するというのは、どのような事なのでしょうか。圧倒的な力に巻き込まれた受動的状況の中で、その力と渡り合うとは、いかなることなのでしょうか。福岡さんは、デカダンスという言葉にこだわり続けます。それは私には身構えのようにも聞こえます。またさらに福岡さんは、今期最初の火曜会の時、この言葉をレベッカ・ソルニットの「災害ユートピア」とも重ねていました。圧倒的な廃墟のなかで、全く先の見えない状況を、すなわち何がおきるかわからない状況を、何でも可能な状況としてうけとめること。このような身構えが、いかなる言葉において成し遂げることができるのでしょうか。じっくり議論しましょう。
1月7日 精読会
松嶋 健『プシコ ナウティカ』(紀伊国屋書店)を読みます。精神医療にかかわる人類学的な研究です。言葉が言葉ではなく、病状として聞き取られる事態を、言葉においてどのように再度描くのかということを、ながらく考えてきました。どのように読むかは、少し考えます。
1月14日 精読会
松嶋 健『プシコ ナウティカ』(紀伊国屋書店)を読みます。
1月21日 討議空間
(Ⅰ)高橋侑里「ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫』とオルタナティブなコミュニティ」
ドキュメンタリー『ミリキタニの猫』を追い続ける高橋さん。しばしば私は、その高橋さんを、さらに映像としてとらえたい気持ちになります。高橋さんの研究自体が、まるでドキュメンタリーが登場させた状況を継続させているかのように思えるからです。映像と映像が誕生した場に、巻き込まれながら、言葉を紡ぐ高橋さんが描く世界(オルタナティブなコミュニティ)を、議論の中で堪能したいと思います。
(Ⅱ)番匠健一「内国植民地の戦後―北海道戦後開拓と帝国崩壊以後の北大植民学派」
内国植民地という言葉は厄介です。内国に強調点をつければ、植民地主義をごまかすことばになるでしょうし、植民地を強調すれば、内国を侵食する植民地主義を浮き上がらす言葉になります。そしてだからこそ、帝国の中の内国植民地が帝国崩壊後にどのような姿を変えたのかが問題になるのです。植民地の存在を当たり前のように語っていた帝国から、植民地がないことを当たり前の語る戦後日本の転換にあって、内国植民地としての北海道はいかなる戦後を歩むことになるのでしょうか。まさしくそれは、報告の副題にある「北海道戦後開拓と帝国崩壊以後の北大植民学派」の問題なのでしょう。
1月28日 討議空間
(Ⅰ)桐山節子 「論文、その後」
論文は他者と出会うこと。そしてその出会いは、論文の完成において終わるのではなく、始まるのです。多くの研究者は書いた後に、その論文をアカデミアの評価にゆだねます。そこにはどこかで、論文は、いわゆる調査の対象とはことなるところで解釈されるべきだという思い込みが前提になっています。とくに言語的にも異なった地理的に離れた場所を研究する場合、この前提はより強固になっています。しかしその前提は、閉じた解釈の共同体としてのアカデミアの、保身を帯びた弁明ではないでしょうか。論文をそこに書き込まれた人々ともに読むという作業の中で、論文そして研究という行為を考えてみたいと思います。
(Ⅱ)古波藏 契 「沖縄イニシアティブを考える」
今期の最後は、出来上がったばかりの古波藏さんの修士論文の報告です。古波藏さんの研究の傍らにいながら感じることは、一つの入り口からかくも多くの問いと広大な世界が見えるとは、という驚きです。と同時に、その問いと世界を正面から見ようとしなかった者たちに対しては、情けない気持ちがします。問われているのは、歴史を記述するという行為そのものなのかもしれません。
Ⅶその他
<奄美―沖縄―琉球>研究センター主催の書評会
「松島泰勝『琉球独立論』を読む」11月8日 SK214
発言者として駒込武さん、小川正人さん、古波藏契さん、そして喜山荘一さん(『奄美自立論―400年の失語を越えて』南方新社)を予定しています。また著者である松島さん本人もいらっしゃいます。ぜひご参加を!