火曜会(第24期 2015年春夏)の予定
すでに終了しましたが、火曜会(第24期 2015年春夏)の予定を掲載しておきます。
火曜会(第24期 2015年春夏)
毎週水曜日(15時より 同志社烏丸キャンパス志高館SK201)
冨山一郎
2月23日から27日の韓国スユノモNでの連続セミナーがありました。火曜会のメンバーも多数参加しました。連続セミナーの様子は(http://www.nomadist.org/xe/galary)に、楽しそうな写真があります。またセミナーでの報告の表題を記すと、一日目「ファノンを読むということ」、二日目「予感するー臆病者の身体から(暴力の予感とは何か)」、三日目「確保することー流着の思想(連累の政治学)」、四日目「ポスト植民地主義の現在と未来」、五日目「言葉を取り戻す場所(研究機械に向けて)」です。()内はスユノモが付けた、セミナーの表題。
そこでの余りにも豊かな議論と出会いは、いまだにうまく表現できませんが、私にとって大きな意味を持つことになると思います。というか、そうなるべく、セミナーの準備をしていたのです。いまセミナーをうけて、報告原稿書き直し始めていますが、最初の出だしだけ記します。
話しているのに、話しているとはみなされず、ただ身体動作のみが求められる。身体を監視することが重要なのであり、監視されている人々は、ただ間違わないように体を動かすことだけに神経を集中させていく。それはまた、いくら言葉で説明しても〇〇に見えるという、反論を許さない断言の横行でもあるだろう。〇〇人に見える、不審者に見える、異常者に見える、アカに見える、過激派に見える、あるいはサボっているように見える。このようは断言の横行の中では、次第に何を言っても無駄なのだという言葉への感触が広がっていく。そしてこの言葉が停止していく先には、まちがいなく暴力が待機しているのだ。このような状況は植民地主義や占領にかかわることかもしれないし、あるいは戒厳状態にかかわることかもしれない。あるいは、口答えを許さない職場やブラックバイトの現場かもしれない。
言葉が他者との関係を担うのをやめていく中で浮かび上がる秩序は、言葉を必要としないという点において、暴力的状況であるといえる。この暴力は問答無用の力であり、そこでは言語的な合意や異議申し立ては不要であり、無意味である。この言葉が停止し問答無用の力が秩序を担う光景は、主権や民主主義といった統治にかかわる制度の問題でもあるだろう。あるいは商品語において場を構成する資本も、そこに関連している。しかし本書では、この光景をすぐさま主権や資本といった問題に設定して議論にする前に、停止ししていく自らの言葉への感触と共に、考えていこうと思う。
ここで想定されているのは、嫌な状況です。またその嫌さは、いろいろなあらわれとして登場しているように私には思えます。まず、自分が住まう大学教員や研究者の世界。今問われているのは、言葉内容の正しさや学的真理ではなく、何を言葉として見なすのかということだと思っています。確かに知識や知識人の公的意味は、その発言内容において判断されます。また大学もこうした近代市民社会の公共性を前提にしているでしょう。ですが、こうした知と社会の関係にかかわる前提自体が、今根本的に問われなければならないのではないか。内容的正しさを争う論壇的な争いが、社会を構成するモーメントではなくなっているという事態を、聴衆のダメさや、論壇の力不足(あるいは正しさの不十分性)といった形でごまかすところに、嫌な光景の一つ目のあらわれがあるように思います。そこでは知の機能不全は、とりあえず残り少ない場所における不寛容な論壇争いや正義の取り合いとして登場しているように思えるのです。機能停止の中で正しさを守ろうとする知識人たちの保身的身ぶり。またそうであるが故に蔓延する知への諦念があります。それは乱暴な物言いと、空虚な記号のおしゃべりが、沈黙と同居しているような光景です。広く見られる光景ですが、それも私がいる大学の光景でもあります。どれもこれも言葉の羅列としか思えない報告書や将来計画の紙の束!
嫌な光景です。しかしスユノモでの5日間は、話しているのに話しているとはみなされない状況の中で、言葉を再開できることの確信を得ました。それはまた火曜会で考えてきたことでもあります。ここでこれ以上その確信について述べることはしませんが、研究行為には知識人の正しさの啓蒙とは異なる回路で、社会を構成していく力が間違いなくあります。私はそこにかけようと思います。
もう一つ、春の収穫というほどでもないのですが、だいぶ昔から気になっていた、言葉の線形性ということについて考えていました。それは縦横無尽の豊かさを持つ討議空間と、一人未明に文字を綴る思考作業の違いとでもいうべきことであるかもしれません。そして後者は不可避的に、言葉を綴るという時間性を帯びます。言葉は「いやおうなく一本の線となってわたしたちに現れる」のです(ソシュール『ソシュール講義録注釈』)。思考が言葉であるのなら、この線形性は大切にしたいと思います。それは文章を書くこと、読むことの重要性と同時に、人の思考を知る作業とは、答えをカードのように提出することではなく、時間を辿るプロセスであるということでもあるでしょう。また逆に言えばこの線形性を大切にするところにこそ、討議空間の豊かさが生まれる要点かもしれません。あるいはそれは、視るという行為の重要性かもしれません。「視覚器官に向けられるものは、多数の同時的記号を含みうる」(同)のです。さらに、こうした線形性は、議論を再度思考することにもかかわります。議論が継続するには、豊かな議論の身体感覚と共に、もう一度「いやおうなく一本の線となってわたしたちに現れる」言葉に引き戻す必要があるのです。だからこそ、視て、議論して、書いて、読んで、また視て、議論してというプロセスが大切なのでしょう。
今期も、書いて、読んで、視て、議論しましょう。またとりあえずやはり、場だけではなく、時間は自分たちのものだという自覚を持ちたいものです。プロセスは時計とは異なる時間を持つのです。時が立つのを忘れて議論の没頭すること。
Ⅰ火曜会の趣旨
知や知的営みは、私的所有や個人業績(量)において意味づけられるというよりも、また私的所有物としての知を前提にした社会のニーズや社会的影響、あるいは所有者(知識人)による啓蒙ということでもなく、知それ自体が他者との関係性や集合性にかかわる行為遂行的な営みであり、意味作用なのではないか。と、信じてはじまったのが、火曜会なのかもしれません。
またそれは、大学という制度的場所が持つ可能性なのかもしれません。火曜会が大学のカリキュラムとしての制度を手放さない理由もそこにあります。今期も、グローバル・スタディーズ研究科の「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」としてもあります。大学は、職場や会社でもなければ研究所でもありません。学生・院生からみれば明らかに流動系であり、それは人々が行き来する路上にも似ています。制度の中に路上を生み出すということなのでしょうか。しかも言葉において。いま大学で起きている事態は、大学の外に出れば解消できるというものではありません。むしろ大学の内と外という区分を越えて浸透している事態であり、こうした状況においてあえて大学という問いを手放さないということが、「大学という場所が持つ可能性」ということでもあるのです。この制度と共にあり、かつ言葉と知において制度を絶えずはみ出し続けるというところに、火曜会の趣旨を考えるポイントがあるように思います。
Ⅱ形式
書かれたものを丁寧に読むことによる関係性の創出(精読会)と、必ずしも書かれたものに限らない媒体(今それを報告と呼びます)による関係性の創出(討議空間)に分かれます。両者の違いは主として時間性にあります。精読会はやはり一定の継続性が必要になります。対して討議空間は、ライブ感あふれる一回の報告が軸になります。両者が互いに相乗すればいいのですが。また今改めて、言葉の持つ線形性の中で両者の違いを考えようと思っています。
Ⅲ討議空間の報告について
それは業績報告や啓蒙の場ではありません。論文執筆や学会発表ののちの報告というより、そのプロセスを共有することを考えてください。「○○のことは××なら当然知っているはずだ」的な態度は、やはりレッドカードです。複数の「××」が別物に変わっていくための討議なのですから。集団性の追認あるいは保身ではなく、新たな集合性の創出がポイントなのです。またこのことは精読会でも同じです。報告は、共有するために、いろいろと工夫をしてください。とりあえず丁寧な説明と時間をかけること。議論の時間規制において排除してきた人や事柄を、蘇らすことが大事なのです。そのためにも、報告という媒体を担おうとする者(報告者)は、一週間前には不十分でもいいですからアナウンスをお願いします。また読むべき文章等も原則一週間目には配布してください。 てまひまをかけること!
Ⅳ精読会について
精読会にはメンバーシップがあります。文章をあらかじめ読んでくることと、原則的には継続的に参加することです。
Ⅴ火曜会複合体、あるいは議論を継続させるための身体レッスン
精読会であれ、討議空間であれ、火曜会の営みの軸は議論にあります。それは線形性を帯びた思考を織物にし、言葉から空間を生み出すような感覚でもあります。その身体感覚を維持し、さらななる多焦点的拡張を目指すには、再度「いやおうなく一本の線となってわたしたちに現れる」言葉に定着させなければならないことが、だんだんとわかってきました。以下にあるのは、とりあえずのやり方です。
(1)橋渡し発題者(minute taker) 第20期に、精読会にかかわって、議論の継続性を維持するために橋渡し発題者を毎回少なくとも一人決めました。前回の議論あるいは前回議論したテキストの個所に対して、自らが思うこと、考えること、感じることなどを文書で提示する作業を、議論の最初に行う人です。一般的なまとめではありません。ただ21期以降では、前回の議論というより、前回の議論をふまえた最初の発言者ということが強調されたように思います。今期も継続して行いたいと思います。大切なのは議論のライブ感であり、議論の過程で見えてきた身体感覚を議論として継続させることのように思います。議論する身体性を維持する工夫です。
(2)「火曜会通信」(通信については、 http://doshisha-aor.net/place/190/)
報告者は短くてもいいですから、議論にかかわる文章を書いて下さい。それは討議の豊かさを再度思考するために必要なことです。やはり私たちは線形性を帯びた言葉において思考しているのですから。また通信の際、報告者以外のメンバーにコメントを依頼してください。依頼された人も、短くてもいいですから、コメントを書いてください。いわば、期の初めの予定表、一週間前のアナウンスに加え、報告とコメントを行うことを議論の一貫としてあらかじめ設定するということです。また「短くても」というのは、たとえば800字ぐらいを念頭においています。そしてその文書たちを、順次<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えていきたいと思います。これまでの通信については、検索してみてください。佐々木薫さんの文章とその応答としての岡本直美さんの文章が最新のものです(http://doshisha-aor.net/place/242/)。この通信は、今期の文章で線形性が頻繁に登場する理由でもあります。ご覧あれ。
(3)別動火曜会と火曜会特別編 以前川村邦光さんの『弔い論』を読む会が、最初の一回と最後のしめの回を火曜会として行い、その間は別動の会として永岡さんを中心に継続的に行われました。こうした別動的展開を、今期も考えたいと思います。たとえば以前から日高さんから青木深『めぐりあうものたちの群像』が提起されています。また22期には、火曜会として田沼幸子さんの『革命キューバの民族誌』を読む会と『流着の思想』を読む会をおこないました。こうした特別編も考えましょう。それは、空間の拡張かもしれません。
(4)火曜会アーカイブ 火曜会通信のところでも述べましたが、<奄美―沖縄―琉球>研究センターのホームページに火曜会アーカイブの場所を設定しています。火曜会にかかわる文書で、公表してもいいものはここに蓄積しようと思います。(http://doshisha-aor.net/place/)。まだこうした装置が、言葉において空間を構成してく作業においてどのような意味を持つのか、私にははっきりしませんが、アーカイブはやはり必要です。
Ⅵ今期スケジュール
以下24期の予定です。表題は仮です。また報告についてのコメントめいた文章は、私が勝手に書いたものです。どうかご容赦ください。また各自一週間前に再度メーリングリストにおいてアナウンスをして下ください。その際、訂正なども。
4月22日 討議空間
‘United in Anger-A History of ACT UP’(Jim Hubbard監督) 見る
案内 佐々木薫
1980年代から、ニューヨークを拠点にHIV/AIDSと共に生きる人の権利運動を展開してきた
「ACT UP」の歴史を描いたドキュメンタリー作品です。そこには、何が写し込まれているのか。まず視るということ、そして共に言葉にするということ。そのとき視ることは、言葉の臨界を縁取り、かつ再編集していく強力な経験になるように思います。
5月13日 討議空間
第一部 軍事基地が作られるということ
-京都での米軍基地建設と地域社会の軍事化-
報告者 大野光明
京都の北、京丹後の経ヶ岬に米軍のレーダ基地ができました。基地が日常空間にあるということを考えましょう。嘉手納基地に隣接して暮らしている人が、イラク戦争の際、「基地が生き物のように動いている」といったことがあります。それは基地が「生き物のように」社会を再編集する事態を、感得しているのかもしれません。
第二部 「忘れられた皇軍」(監督大島渚)をみる
-ナレーションと映像をめぐってー
報告者 高恩美
大島渚の1963年の作品です。私は子供のころ、白衣を着た傷痍軍人たちが、街のあちらこちらで募金を訴えていた光景を記憶しています。それは、もはや戦後ではないと政治家が豪語した時代の中で、戦後という時間に、全身で抗っている姿でした。そしてその中に、多くの旧植民地出身の兵士たちがいたことを、後で知ったのです。映像の記憶、そして言葉による思考。両者においてこの国の戦後を、考えようと思います。
5月20日 討議空間
第一部 紋様と人種について
-大野雲外を中心にー
報告者 姜仁恵
人をヴィジュアルに表象し、人種分類において帝国を構成しようとした人類学者たちにとって、紋様とはなんでしょうか。人体測定学における人種構成、物質文化による分類、個人を同定する指紋といったこれまで個々に論じられてきた分類と統治技法が、紋様という領域に重なり合っているのではないでしょうか。さらにはそこに、文字と紋様という位階構造もあるのかもしれません。そしてそこから見出される帝国の統治とは。大いに議論しましょう。
第二部 人口を問題化する優生
-1920年代日本におけるバースコントロール運動と優生学の接点-
報告者 李秀珍
より良き生を定義することは、同時に予め排除してよい生の問題でもあります。しかもその定義を担うのが学的真理だとするならば、その生をめぐる統治は、法的な手続きを越えた真理による無法な支配になるのかもしれません。科学は法を越えるのです。そして生と死が無法な統治において構成される時、統治のアリーナとして、女性の身体が浮かび上がります。あとで李秀珍さんのお別れパーティもしましょうか。
5月27日 討議空間
「ユートピア」をかかえこむこと
-原爆ドーム・焼け跡・鐘楼-
第一部 焼け跡で夢見る方法
-石川淳と坂口安吾-
報告者 福岡弘彬
第二部 被爆者からの核の平和利用
-長井隆と長崎の鐘―
報告者 番匠健一
第三部 原爆ドームを語る言葉、みる視線
報告者 西川和樹
レベッカ・ソルニットは、一切が崩壊した壊滅的状態を、何でもありうる未来に開かれた事態であり、「変わる可能性のある現在(a transformative present)」とよびました。このような未決の未来に開かれた現在を取り逃がさない知覚、あるいは復興という名の戦後の中にあって、その未来を確保し続ける言葉そして視覚とはなんでしょうか。そしてまさしくこうした知覚とその知覚をめぐる知は、今こそ必要なことのように思います。三人と共に考えましょう。
6月3日 討議空間
第一部 女性の男性性を読むこと
-Tokyo Boisの若さと中性美をめぐって-
報告者 佐々木薫
写真集『TOKYO BOIS』を考え続ける佐々木さんの報告です。〇〇にみえるということ。あるいは〇〇にみせるということ。あるいは、〇〇としてみているかをみているということ。さらに、交差し続ける撹乱的視覚を担うことが、一人前への成長物語から離脱することと関係するのかもしれません。映像を見ながら大いに議論しましょう。
第二部 日系人強制収容所と忠誠登録の記憶をドキュメンタリーから辿りなおす
報告者 高橋侑里
ドキュメンタリーをみるということは、歴史を編集し、社会を生み出していくことです。これは、高橋さんから教わったことです。またそれは、ドキュメンタリーを思考し続け高橋さん自身の営みでもあるように思います。「辿りなおす」ということは、日系人の歴史を構成してきた前提に問いを立てていくことなのでしょう。ラディカルな高橋さんの報告です。
6月10日(休み)
6月17日 討議空間
第一部 1940年代南洋群島における朝鮮人労働者について
報告者 森亜紀子
戦時体制が構築される中で、日本が統治していた南洋群島に何がおきたのでしょうか。歴史的出来事を、膨大な語りの中から再構成していく森さんの報告です。今回は朝鮮人労働者が焦点になるようです。
第二部 デモスと宗教
-1940年代における「神々のラッシュアワー」再考―
報告者 永岡崇
デモス(民衆)とはなんでしょうか。デモスがデモスとして存在する時、そこには死んでしまった人々は入らないのでしょうか。立ち去った人々は関係ないのでしょうか。あるいは、未来において到来する人々は。それは、神のみぞ知ることなのかも知れません。あるいは、神を抱くことにおいてこそ見えるのかもしれません。久々の永岡さんの報告です。
6月24日 精読会
李珍景『不穏なる者たちの存在論』(インパクト出版会 2015)を、三回の精読会で読みます。8月26-8日にスユノモNとスユノモRの人たちとともに、討議空間を持ちます。それに先立って、同書は読んでおきたいのです。読みながら討議空間の準備をしましょう。
7月1日 精読会
李珍景『不穏なる者たちの存在論』(インパクト出版会 2015)
7月8日 精読会
李珍景『不穏なる者たちの存在論』(インパクト出版会 2015)
7月15日 討議空間
第一部 社会主義者になるということに問いかける
-遠藤無水の「社会主義者になった漱石の猫」をめぐってー
報告者 姜文姫
果たしでどのような内容なのでしょうか。革命と恋愛について考えてきた姜文姫さんが論じる「社会主義になるということ」への問いとは何でしょうか。わくわくします。何が政治なのかという、前提自体を問う議論なのかもしれません。あるいは国家社会主義もふくめ、多様な接合をひきおこす「社会主義」という言葉の錯乱なのかもしれません。楽しみです。
第二部 第一次世界大戦後の民族自決をめぐる解釈の葛藤
-米国・日本・朝鮮の民主・人権・民族の概念を中心として-
報告者 ユン・ヨンシル
社会主義もそうですが、民族ほど厄介な言葉はありません。ファノンは複数の力の合力として民族という言葉を用いますが、それは何を民族というのかということをめぐる葛藤のプロセスこそが重要だということでもあるでしょう。民主にしても人権にしても民族にしても、一つの正しさにおいて定義された概念で整理し説明するのではなく、この葛藤こそが重要だと思います。
7月22日 討議空間
- 境界からの歴史記述
-パインブームにおけるチャイニーズネスからー
報告者 安里陽子
人々が移動し続けるプロセスは、どのような経験として言葉を獲得し、また代表されるでしょうか。あるいはこうした経験は、どのような歴史記述を要請するでしょうか。その歴史は領土に囲まれた主体においては代表され得ないでしょう。あえていえば境界に囲まれた領域からの離脱の経験を、言葉と歴史記述において確保しなければならないのです。チャイニーズネスとしてくくられる領域から安里さんが考えようとしているのは、このことのように思います。
- 翻訳空間としての東アジア
-翻訳者たちのためのノートー
報告者 尹汝一
翻訳は、連帯の問題でもあるでしょう。またその連帯が閉じたものにならないためには、まさしく翻訳が重要だともいえます。翻訳は言葉で繋がることと、言葉にならない複数の身体の生産を同時に作り上げるのです。また翻訳をないがしろにする者たちは、連帯を閉じたものにしてしまうでしょう。「翻訳空間としての東アジア」!
7月29日 精読会(そのあとパーティー)
茶園敏美『パンパンとは誰のことか』(インパクト出版会)を読む
案内 小路万紀子
Ⅶその他
金曜日 三限(13時10分より SK203)「沖縄戦を考える」
四限(14時55分より SK203)「松下竜一を読む」
参加希望者は連絡を。