火曜会通信(4)中井正一を読む
中井正一を読む(2015年10月20日)
冨山一郎
火曜会が新しく始まるときは、最初の日にいつも、火曜会という場についての議論をしてきました。そして一昨日(2015年10月20日)の尹汝一さんの案内による「中井正一を読む」は、前回(2015年10月7日)の第25期最初の場で議論し切れなかった、火曜会という場について議論することを、継続するという性格を持っていました。そういうわけで、以前お配りした私の「共に考えるということ」(http://doshisha-aor.net/place/366/)も、中井正一とともに議論することになりました。昨日も話したことですが、少しこの私の文章のなりたちについて説明をします。
この文章は今年の夏に「スユノモ」とのワークショップの際に、全体で考えたいテーマとしてワークショップの最初に提起したものです。ただその際には、注を完成させる時間がなく、おおむね本文だけの文章でした。そして9月の夏の間に、本文の若干の手直しと注の作成を行った次第です。
注を作成しながら、ずっと自分が生きている今の状況に対する違和感、あるいは嫌な感じがせり上がってきて、それが注の内容を規定したように思います。それは議論が出来ていない言葉の状態です。そしてこの言葉への違和は、安倍政治についてというよりも、安保法制反対運動に対して感じたことです。もっといえば議論が見えない大きな力が、むくむくと目の前に登場してきたという感触のことです。もちろん法案には反対であり、法案反対であらゆる勢力は一致すべきだという議論もわかります。しかしこの自分も賛同している動きに対する違和感は、強烈でした。その中で、文字通りデモや集会と審議性をどう重ねるのかということが、9月に注を書きながら私の中に湧き上がった問いでした。
実は中井正一を再読しようと思ったきっかけはいろいろあるのですが、小田実が前衛と大衆(彼は「ぴいぷる」といいますが)の間にこの審議性を確保しようとする文章を読んだのが一つあります。小田は自らのべ平連での運動を取り上げながら述べています(そのあたりは私の「共に考えるということ」の注38を見てください)。またこの小田の文章が所収されている『「共生」への原理』(筑摩書房、1978年)を読むことになったのは、そこに名詞的に名付けるのではなく、動詞的に考えることの重要性が議論されていたからです。この動詞的に思考するということは、8月のスユノモとのワークショップでとりあげた李珍景さんの『不穏なる者の存在論』にも登場することです。またワークショップ二日目に、私の『流着の思想』を議論して下さった高秉權さんが言及した、副詞的ということともかかわります(http://doshisha-aor.net/place/263/)。ですがこの動詞的思考ということは、その時がきっかけではなく、もっと以前から気になっていました。
もう6年近く前になるでしょうか、松下竜一さんを議論した堀川弘美さんの修士論文「『草の根通信』という場所―松下竜一における運動としての書き言葉―」において、松下竜一さんの文体の魅力を堀川さんが語ろうとしたとき、この動詞的という小田実の文章を引用していたことを思い出したからです。そして思い出したのは、今年の春学期に、みんなで松下竜一を読んだからでした。
いろいろな場と人が絡まる不思議なつながりです。しかも偶然ということでもありません。いずれにしてもこうしたつながりの中で、私は火曜会という場を考えるために中井正一に出会ったのです。
***
自分のいる場について話をするのは、本当に難しい。論じられている場と、論じている私の乖離を感じたときには力が抜けていくように感じます。あるいはそれは逆に、剥離という距離を前提にして、文字通り研究対象として生き生きと論じはじめることかもしれません。また論じることが、自分の場が何であり、自分が何者かということに密着し始めると、論じるというより未来に向う方策を考えているような雰囲気にもなります。でもそこには、その自分あるいは自分たちに乗れない人もいるだろうと想像したりします。一昨日中井正一について議論をしたときもそうでした。
もし中井正一や『土曜日』を、1930年代のファシズムの時代における知識人の活動という歴史学的テーマに押し込めてしまえば、もう少し別の議論の仕方があったのかもしれません。また既になされているこうした分析的な議論も、重要だと思う。ただ一昨日の議論は、議論することが今の状況と私たちの議論の場に跳ね返ってきていました。そしてその跳ね返りの雰囲気の中では、中井の正しい思想像が問題というより、中井の文章に魅かれたということを説明する場だったように思う。それはたぶん今述べたように、論じることが、どこかで自分たちにかかわることであるということを、参加者が感知していたからだと思います。そのときの議論の感触においては、やはり、ここがおもしろい、ここに魅かれるということが、とても大切な出発点になることも、一昨日の議論で浮き上がったように思います。
そしてあえていえば、こうした議論の仕方においてこそ、『土曜日』を読むということが可能になったのではないでしょうか。「委員会の論理」がある意味で哲学的で概念的な議論を引き寄せるのに対して、『土曜日』の文章は、まずはただ読むことを求めます。まただからこそ、『土曜日』の中井の文章は、時代を学的語る根拠としての資料に押し込めて読むべきではなく、また哲学の理論書として整理するのでもなく、火曜会に集った一人ひとりがそれぞれの思いを込めてまずは読むことにつながったのです。そしてその最初の始まりが「おもしろかった」なのです。そしてこのつながりこそが、中井が文章を書くということ賭けた夢だったのかもしれないと思うのです。
***
「委員会の論理」において中井が、ガブリエル・タルドの公衆論に言及しながら「印刷の論理」を、書かれたものをそれぞれの生活経験において読むというと述べ、生活経験を書かれたものを読むということにおいて設定したことは(『評論集』17頁)、生活あるいは経験が書くあるいは読むという行為において存在することを示しています。それぞれの経験において読むことが、経験が言葉を持つということであり、また個別に見える経験が他者に読まれうる経験として登場することでもあり、それはまさしく経験を言葉において縁取ることなのでしょう。そして経験がこうした行為のプロセスの中にもある以上、いつも言葉からはみ出し続けます。でも言葉なのです。経験が言葉になり、それが読まれ、別の経験とつながる。中井が描いた審議性は、こうした言葉たちにおいて確保されるのかもしれません。そしてその言葉たちはやはり、生活経験において読まれるものなのです。ここに、書くあるいは読む、あるいは「印刷の論理」の要点があるように思います。
一昨日の火曜会で西川和樹さんが指摘した、「鎬(しのぎ)を削る生活の戦い」ということも、中井においては『土曜日』とのかかわりの中で考えているように思います。
生活とは、その落ち着きの上に今一歩の鎬を、今一歩の切込んだ批判をもってこそ、今、此処に、生きていることを手離さない生活といえるのである。その意味で、生活は厳かさをもっているのである。
これは『土曜日』(1936年10月20日)にある、中井の「生きて今此処に居ることを手離すまい」の一節です(『美と集団の論理』199頁)。厳(おごそ)かな生活。そして生活の戦いではなく、今一歩の鎬と批判こそが、読むことであり書くことであり、言葉において生活を縁取ることであり、他者と繋がることなのです。そしてそれが「印刷の論理」であり、中井が『土曜日』に賭けた夢なのでしょう。またそこには、その夢とはまったく正反対の事態が進行しているという現状認識もありました。
おもしろかったという『土曜日』の読後感は、極めて的確に中井正一を読み取った証に他なりません。学術書を正確に読もうとすることに慣れてしまった私には、こうした読みがみなさんから披露されるたびに、もう一度身体のレッスンをしなおして、『土曜日』を読んでみようという気になります。それは一昨日の火曜会の最後に柚鎮さんがいった「トレーニング」ということなのでしょう。トレーニング!
(2015年10月23日早朝)