火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(63)ー「書く」ことをめぐる断章:ルワンダにおける権威の理解に向けてー

 

 

「書く」ことをめぐる断章―ルワンダにおける権威の理解に向けて―

(2018年2月15日報告)

 

近藤有希子

 

 

私の悪い癖なのだが、発表の前にはいつも徹夜をしてしまう。たとえ前もって準備が万全に終わっていたとしても、よくは寝つけない。緊張のせいなのだろう。その結果、いつも当日の議論のときには、よくわからない気持ち悪さのようなものに襲われる。しかし今回の、私にとっては初めての火曜会という場における報告に関しては、ディスカッション・ペーパーの送信後、推敲の不足している文章であることは自覚していたにもかかわらず、いつも通りによく眠り、むしろどこか安心して臨むことさえできた。それは自分の文章に対して責任を放棄するという投げやりな意味では決してなく、「書いたもの」が自分の手を離れて、場をともにする皆さんに委ねられているのだという、やわらかな予感があったからだ。そしてその「委ねる」という感覚は、この一年間の火曜会への、真面目とは言えなかったけれど、参加の継続を通して得られたものでもあったと思う。その場にいるお一人おひとりの顔と名前を覚えて、声を知って、間を共有する。その反復は、流動的に形成される場に応じて微細に変化しながらも、しかし確実に、私に「ともにある」感覚を教えてくれた。

ルワンダでの調査を開始してしばらくしたころ、調査の拒絶という強烈な経験とともに、私の調査道具である「緑色のノート(野帳)」を挟んだ「こちら」と「あちら」に存在する重大な断絶を知るようになった。それは結果的に、今回の報告で目指したように、ルワンダの人びとにとっての「ノート」や「紙」という媒体、また「書く」という行為に付随する意味や想像力への理解を促している。しかしそれ以前に、調査を拒絶され、断絶を知る過程とは、なにより私に「書く」ということ、調査や研究をおこなうことが「怖い」という感情をもたらした。そしてその感情を直截的に開示することを、私はいつもどこかで躊躇ってきた。それによって、対象に近づくことが不可能で、ただ努力不足の「不適合者」だとか「臆病者」だとして片づけられてしまいうることを恐怖していたからかもしれない。同じように研究をおこなう周囲の者たちが、「彼らの」―と所有格で呼んでしまうような―調査地を行き来するなかで、次第に構築されているのであろう良好な関係性と彼ら自身の努力の結果、まさに見たいものや聞きたいこと、知りたいものに近づいているような、そんな確かな手触りを傍で受けとってしまう一方で、私はひとり、私自身のうちに閉じることにおいて、なにか大切なものから遠ざかっていたのかもしれない。

しかしだからこそ、今回、「委ねる」ことによってもたらされたものは、眩暈がしそうなほどに豊かな経験であった。私が委ねた先の方々は、慣れない地域の話を伝えるという点においてまだ頼りのない私の文章を推し量りながら、皆さん自身が経験してきた「書く」ことにまつわる出来事をひきつれて、懸命に向き合ってくださった。たとえば私の横に座っていた彼女の、印刷されたディスカッション・ペーパーに書き込まれたひらがなと漢字とハングルの入り混じった文字の多さと、そのなかで美しく生成する多様な発想に感服しながら。たとえば私の向かいにいた彼女の、言語化される手前の危なっかしくも、でもだからこそ続きを聴きたいと願う領域を孕んだ言葉に魅了されながら。そしてたとえば、私の野帳がアーカイブになる可能性と、そのとき白紙の頁さえ意味づけられうることを垣間見せて、私を内心困惑させた「歴史家」としての彼女の想像力に、新鮮な驚きを感じながら。

また私自身が、沖縄に関する冨山先生の「書かれたもの」に出会ってこの火曜会にめぐりあったように、沖縄に関わる方々の発話は、どこか手の届きそうな距離感で迫ってきた。それは、記録に残せなかった無念さのなかで、他者の話を聴くことのかけがえのなさを念じるように抱き続けた人たちから、想いを託された彼であり、ご自身を黒子だと思いながら調査されていたにもかかわらず、「○○について書いてほしい」としっかり頼まれ、それ自体ですでに参加型の取り組みのなかに身を置く彼女であり、時系列の「歴史」を書こうとしながらも、みずからが動き続けるなかで多くの偶然を引き寄せて、「歴史」を攪乱し、新しいなにかに光をあててしまう彼女である。そして、紙にまとわりつく暴力性や、緊張感を伴いながら通い続けるところに醸成する関係性を、遠く離れた地にありながらともに感知し、いつも私の半端にしか言語化されていない会話に言葉を寄せてくれる彼女でもある。

冨山先生の表現をお借りすると、ルワンダにはたしかに、「書く」ことの中身への関心が剥奪されて、その行為自体が危険だとみなされうる状況が存在している。つまり、「書く」ことが行為になり、その行為こそに意味が生じてしまうこと。言葉が言葉としての機能を失ってしまうこと。そのなかにあって、私が村の女性たちに託した食事日記とは、彼女たちに、そしてなにより私自身にとって、悦びを喚起させるものとして見出された。彼女たちと私とでは、おそらくそれぞれ異なる文脈で「書く」ことの困難を感じていたはずなのだが、そこでは図らずも、「書く」ことの難しさをともにしていたのである。日々書きつけられた食材名や入手場所、購入価格は、ただの単語や数字に過ぎなかったかもしれないけれど、私を含み込んだ彼女たちの関係性のなかにおいて、一方で私たちが言葉を取り戻すための契機であったのかもしれない。それは動作として禁止されたものを、動作において復活させるという、ある種ユートピア的な、しかし決して大げさではない、確実な転換であったのかもしれず、皆さんとの議論のなかで、そんな予感に触れることができて、すこし心に滲む思いがした。

「書く」という行為は、往々にして圧倒的な孤独と対峙しながらおこなうことである。しかし一方で、それはご指摘にもあった通り、ディスカッション・ペーパーのなかで「喚起」や「想像力」といった、外部のものが内部にもたらされることを含意する言葉を私が無意識に選び取っていたように、ひどく社会的な行為でもある。「書かれたもの」もまた、ときに和解を導く手段にもなれば、役人との交渉の道具になることだってある。しかし、社会的な出来事であるからこそ、その行為やそこに書きつけられた言葉とは、つねに他者への幇助や配慮に満たされたものであるばかりではなく、ときにだれかを傷つける暴力的な側面をも有してしまう。それは「緑色のノート」をもつ私が、ルワンダにおいて身に着けてしまった、「書く」という行為に伴う身構えが示しているように。そして人びとが共生に向けた覚悟において曖昧にすることと同様に、野帳のなかの白紙の頁は、私にとっては暴力回避の一手段としてあったのだろう。だからこそ、火曜会の場にあっても、「書く」ことにおいて「委ねる」こととは、みずからの経験のなかで感受してくださった方もいたように、やはり勇気のいることであった。

勇気を携えながら取り組んだこととは裏腹に、それでも、今回の火曜会が大きな不安もなく臨むことのできる場所であったことには、「書いたもの」をみずからの側に保守しようとするための議論の場としてではなく、それを読み手に一度引き渡すことにおいて自分自身が開かれていく場として存在しているからだろう。「緑色のノート」を構える私もまた、私にしか知りえないという民族誌的な権威に覆われてしまうことなく、これからも、ともにひらいて柔軟であることができればと切に願う。もしかしたら、その大切なことを気づかせるために、ルワンダで調査を始めたころには日々書きつけて向き合って助けてくれていたはずの「緑色のノート」は、私にさまざまな困難を与え、こうして格闘させてくれているのかもしれない。