火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会通信(93)ー近藤とし子と危機の時代の栄養学

 

 

「近藤とし子と危機の時代の栄養学」(2019年11月20日西川和樹さんの報告)について

 

岩島史

 

総力戦体制下や占領期といった危機の時代の栄養学を題材に、政治や資本にとらえきれない台所の「勝手」さをつかみたいという西川さんの報告は、まさにその「勝手」な台所のつかみがたさを感じさせられるものだった。近藤とし子の活動を、シンプルな栄養士としての「経歴」としてまとめてしまうのではなく、かといって栄養学という学知と国家、植民地主義、ファシズムなどとの相互依存として論じるだけでもなく、近藤の見たみそ汁の鍋と南瓜の煮物の鉢が置かれている食卓の風景、近藤の作った野草のおひたし(おいしかったのか?)も含めて議論しようとするところに、西川さんのペーパーの魅力があるように感じた。

しかし火曜会の議論のなかで印象的だったのは、それでもやはり政治の問題、植民地主義の問題、レイシズムの問題として議論されたことだ。例えば、困難な状況に対して怒るのではなく「困窮のなかでも楽しむ」ことが国家の戦争を支えたのではないかということ、科学による食のコントロールをどう考えるか、労働科学研究所の評価、栄養学によってめざされる健康な身体はだれにとってのものなのか、栄養士制度へのGHQ/SCAPの関与といったコメントがだされた。近藤とし子の経歴にはそのような構造的な権力への加担がちりばめられているように見え、それこそがこの時代の栄養学的な知の広がりを示すものとも言えるだろう。

私自身もそのようなコメントをとても刺激的だと感じ、共感する部分も多い一方で、近藤とし子が向き合ってきた、農村や工場の人々の日々の暮らしをなんとかするための営みををどう描くのかという西川さんの問いはまだ残されているようにも思う。あわせて、台所や生活がしばしば「女性の領域」であったことをどう考えるかについても、まだ議論の余地が残されているように思う。西川さんのペーパーでは「台所保守」と表現され、火曜会の議論のなかでもたくさん指摘があったように、台所も生活も確実に政治的な領域である。男性=政治vs女性=生活といった二項対立が成り立たないのは当然としても、女性の、台所・生活からの/を通した政治は、男性とは異なる「おんなの政治」なのだろうか。もしそのように表現するとしたら、それはまたなにかを塗りつぶしてしまうことにもなるのだろう。私も引き続き考えていきたいし、また火曜会の場で議論できれば嬉しいです。