火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

火曜会(第25期 2015年秋冬)予定

すでに終了しましたが、火曜会(第25期 2015年秋冬)予定です。

 

第25期火曜会 (2015年秋開始)

同志社志高館SK201  15時より

 

 

 

Ⅰはじめに

 

『土曜日』は人々が自分たちの中に何が失われているかを思い出す午後であり、まじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互に語合われ、明日のスケジュールが計画される夕である。はばかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まるる夜である(『土曜日』創刊号、1936年7月4日)

 

夏におこなった2日間にわたるスユノモとの議論は(http://doshisha-aor.net/place/263/)、火曜会という場を再度考えるいい機会でした。そこで私が話した原稿が、アップされていますのでどうぞ読んでください(http://doshisha-aor.net/place/366/)。そしてその文章の冒頭に引いたのが、この『土曜日』という新聞の創刊号に掲載されているものです。この新聞は1936年から1937年にかけて週刊で刊行されていました。この文章は、中井正一という美学者によって書かれています。また1937年11月8日、中井は京都府警により検挙されました。『土曜日』の終刊はそれによるものです。原本の一部は、同志社大学の人文科学研究所にも所蔵されています。

この文章にある「土曜日」ということにこめられた時間の流れに、目を凝らしてみたいと思います。既存の予定が停止し、予定外のことがおきるかもしれないまえぶれに、今という時が満たされる。これが土曜日なのです。その時にこそ、真の「スケジュール」が語られ、別の未来に向けた語りあいが始まるのです。こうした未来に向けて時間の流れが解き放たれる瞬間に獲得される予定外の時間を、中井は別のところで「技術的時間」とよんでいます。それは何かをなそうとする時、出来るかできないか、出来たか出来なかったかという結果において定義される時間ではなく、なそうとする時にこそ見える時間のことです。結果を正当化する時間の経緯ではなく、目指された瞬間に見いだされる時間です。その時間においては、「いずれの瞬間もが出発点」であり、中井はそれを「原生産的現在性」とも呼んでいます(中井「委員会の論理」)。

あるいはそれを中井は、同じ『土曜日』の中で、正月のお祭り気分にたとえています。「お祭りとか騒動は人を結びつけるものである」。中井において話し合うとは、この何がおきるかわからない、何でも始めることができる時間において構成される「結びつき」を担うものなのでしょう。ソルニットなら「変わる可能性のある時間」と呼ぶかもしれません。ソルニットに沿っていえば、それは何がおきるかわからないという緊急事態であると同時に、「何でも可能だという革命の教えから、そんなにかけ離れていない」のでしょう(ソルニット『災害ユートピア』)。

中井が土曜日とそれにかかわる討議の場を「委員会の論理」の中で考えていように、ソルニットもこの何でも可能であるという時間を確保し続ける場所を「たまり場(gathering place)」と呼んでいます。また中井の試みを、後に鶴見俊輔は「論理と歴史の間にコミュニケーションという中間項をいれた」と述べています。歴史を構成するのは論理でもなければ普遍的正しさでもなく、議論であり、話し合いなのです。私たちの火曜会も、と私は思っています。

 

Ⅱ火曜会の趣旨

知や知的営みは、私的所有や個人業績(量)において意味づけられるというよりも、また私的所有物としての知を前提にした社会のニーズや社会的影響、あるいは所有者(知識人)による啓蒙ということでもなく、知それ自体が他者との関係性や集合性にかかわる行為遂行的な営みであり、意味作用なのではないか。と、信じてはじまったのが、火曜会なのかもしれません。そして知的な所有者の分配という機構自身が既に保証されていない今、知のあり方自体を変える必要があるとも思います。

またそれは、大学という制度的場所の危機であると同時にその場所が持つ可能性なのかもしれません。火曜会が大学のカリキュラムとしての制度を手放さない理由もそこにあります。今期も、グローバル・スタディーズ研究科の「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」としてもあります。大学は、職場や会社でもなければ研究所でもありません。学生・院生からみれば明らかに流動系であり、それは人々が行き来する路上にも似ています。制度の中に路上を生み出すということなのでしょうか。しかも言葉において。いま大学で起きている事態は、大学の外に出れば解消できるというものではありません。むしろ大学の内と外という区分を越えて浸透している事態であり、こうした状況においてあえて大学という問いを手放さないということが、「大学という場所が持つ可能性」ということでもあるのです。この制度と共にあり、かつ言葉と知において制度を絶えずはみ出し続けるというところに、火曜会の趣旨を考えるポイントがあるように思います。

 

Ⅲ形式

書かれたものを丁寧に読むことによる関係性の創出(精読会)と、必ずしも書かれたものに限らない媒体(今それを報告と呼びます)による関係性の創出(討議空間)に分かれます。両者の違いは主として時間性にあります。精読会はやはり一定の継続性が必要になります。対して討議空間は、ライブ感あふれる一回の報告が軸になります。両者が互いに相乗すればいいのですが。そのことについては、今日、スユノモで報告した文章でも考えましたので、今日議論できればと思います(http://doshisha-aor.net/place/366/)。またさらに「視る」ということについても議論ができればと思います。これについては竹村和子さんについて考えた文章をよければ読んでください(http://doshisha-aor.net/place/365/)。そこでは「引用」と「再演」の重なりを考えています。

 

Ⅳ討議空間の報告について

それは業績報告や啓蒙の場ではありません。論文執筆や学会発表ののちの報告というより、そのプロセスを共有することを考えてください。伝達することが報告ではありません。ただの伝達には共通平面がある意味無自覚な暴力性を持って前提とされています。「○○のことは××なら当然知っているはずだ」的な態度は、やはりレッドカードです。複数の「××」、すなわち既存の集団所属が別物に変わっていくための討議なのですから。集団性の追認あるいは保身ではなく、新たな集合性の創出がポイントなのです。またこのことは精読会でも同じです。報告は、共有するために、いろいろと工夫をしてください。

とりあえず丁寧な説明と時間をかけること。議論の時間規制において排除してきた人や事柄を、蘇らすことが大事なのです。そのためにも、報告という媒体を担おうとする者(報告者)は、一週間前には不十分でもいいですからアナウンスをお願いします。また読むべき文章等も原則一週間目には配布してください。 てまひまをかけること!

また討議空間は場です。単なる報告が伝達でないように、自分の報告の為だけにあるのではありません。場を集団で確保し続けるという集合的な行為群自体が討議なのです。報告者ではなくても参加することに意義があるのです。そこにいるということが、重要なのです。

 

Ⅴ精読会について

議論の継続性が必要となる精読会には、とりあえずメンバーシップがあります。文章をあらかじめ読んでくることと、原則的には継続的に参加することです。

 

Ⅵ火曜会複合体、あるいは議論を継続させるための身体レッスン

(1)通信

これまで何度も通信を試みてきました。そして素晴らしい文章もあつまりました。ですがうまくいっているとは言い難いです。通信については、(http://doshisha-aor.net/place/190/)。こころみに、報告へのコメントを出来うる限り私が通信として文章にしようと今思っています。またその文書たちを、順次<奄美―沖縄―琉球>研究センターにある「場」(http://doshisha-aor.net/place/)の「火曜会」のところに、蓄えていきたいと思います。既に書かれ通信もここにあるのでご覧ください。

(2)別動火曜会と火曜会特別編

以前川村邦光さんの『弔い論』を読む会が、最初の一回と最後のしめの回を火曜会として行い、その間は別動の会として永岡さんを中心に継続的に行われました。あるいは今年の夏には、増渕あさこさんの報告は特別編として行いました。時間が変わることで不断参加できない人たちも集まりました。こうした特別編も考えましょう。それは、空間の拡張かもしれません。

(3)火曜会アーカイブ

火曜会通信のところでも述べましたが、<奄美―沖縄―琉球>研究センターのホームページに火曜会アーカイブの場所を設定しています。火曜会にかかわる文書で、公表してもいいものはここに蓄積しようと思います。(http://doshisha-aor.net/place/)。まだこうした装置が、言葉において空間を構成してく作業においてどのような意味を持つのか、私にははっきりしませんが、アーカイブはやはり必要です。

 

Ⅵ今期スケジュール

以下が今期のスケジュールです。紹介文は私が勝手に書きました。ご容赦ください。あらためて一週間前にそれぞれの担当者がアナウンスしていただければと思います。また今期は精読会というより、「〇〇を読む」という討議と精読を併せ持った形が多くあります。注目したい動きです。またその他のところにも重要な情報があります。

 

10月21日  精読会

中井正一を読む

案内 尹汝一

 

最近いろんな場所で中井正一の話をすると、「自分も今、気になっている」という応答によく出会います。その中井正一を読みます。今期案内の冒頭でも書いてあるように、それは火曜会という場を考えることでもあるのですが、それだけではなく、中井の美学やスポーツにかかわる思考などもおもしろいです。また彼は、現在の学問分野を分業体制とみなし、利害と業績主義という点において、アカデミアを批判した人でもありました。その批判はすでに1920年においてなされています。有名な「委員会の論理」において展開される彼の集団へのまなざしは、初発から研究行為のあり方と深く結びついていたのでした。雑誌の意味や言葉の役割を考え続ける尹汝一さんと共に、読みたいと思います。

 

 

10月28日  討議空間

占領期沖縄の土地接収と完全補償をめぐる折衝

―伊江島真謝区地主の乞食宣言―

報告者 岡本直美

 

伊江島の土地闘争、そして阿波根昌鴻にこだわり続ける岡本さんです。1950年代の土地闘争の中で大きな位置を占めると同時に、闘争の典型として語られてしまう伊江島であり阿波根さんなのですが、岡本さんはそこに、「土地闘争」というくくり方自体を再考する可能性を引き出します。何を闘争といえばいいのか、なにを補償というのか。あるいは折衝とは。その先になぜ「乞食宣言」なのかという問いが、間違いなく浮かび上がるに違いありません。楽しみです。

 

11月4日   精読会

鶴見俊輔を読む

案内 番匠健一、尹汝一

 

亡くなった鶴見俊輔さんを読みます。鶴見さんに限らず、亡くなられると多くの人が勝手に言及し始めます。「そうだ」と思うものもあれば、「違うだろ」という違和もあります。たとえばある集会の場で、主催者が最初に参加者全員に起立と黙とうを求めた時、「これは違う!」と思ったこともあります。鶴見さんはこういうやり方を一番嫌っていたのではなかったのか。また戦後日本の平和の中で、鶴見さんが語られることが多かった夏ですが、そのようないい方に出会うたびに、「ちゃんと読め!」とも思いました。私は、鶴見さんは徹頭徹尾戦後日本は失敗したと思い続けていたと思うからです。そんな夏の思い出とともに、議論ができればと思います。

 

11月11日  精読会 

Wendy MatsumuraさんのThe Limits of Okinawa: Japanese Capitalism, Living Labor, and Theorizations of Community(Duke University Press , 2015)を読む。

案内 小路万紀子

 

火曜会メンバーのウェンディさんの初めての本です。沖縄を考える際に、資本と労働を真正面に据え続ける彼女の沖縄論です。沖縄にかかって、占領や植民地主義ということばが、ある意味で安易に語れることが多いのですが、私は資本と労働の問題が語られないところで、植民地主義もあり得ないし、占領あるいは領土が何かということも議論し得ないと考えています。間違いなく今にかかわる重要な議論になるでしょう。資本にこだわりながら「不穏さ」を増している小路さんの案内です。

 

11月18日  討議空間 

第一部 北海道から見た日本帝国

報告者 番匠健一

 

植民地主義は、他の地域を支配し統治することというよりも、人々がその地におとずれ、開発していくことかもしれません。また植民者が被植民者を支配するという構図のなかで植民地主義を語る作業が見落とし続けてきたことが、そこにはあるのかもしれません。またこうした議論は、開発や復興といった今日においても展開中のことがらと植民地主義がそれほど遠くないところにあるのではないかという重大な問いを開いてくれるかもしれません。それは番匠さんがこだわり続ける、植民学という問題です。

 

第二部 「日韓近代美術家のまなざし展」をみる

報告者 西川和樹

 

みるという行為において植民地主義を語ることは、同じものをみながら違うものが描かれることなのでしょうか。そもそも美を求めるまなざしにおいて、それはどのように議論されるのでしょうか。色遣い、表情、配置、あるいは主題などにおいて議論がきっちりと議論が出来なければ視るという行為において植民地主義を論じたことにはならないでしょう。描いた人の性格規定において演繹的に論じるのではなく、あくまでも西川さんと絵を見ながら共に考えたいと思います。

 

11月25日  精読会

辻原登を読む

案内 ニコラス・ランブレクト

 

10月にシカゴ大学からきたニコラスさんと、辻原登を読みます。『村の名前』ぐらいしか、作品を知らない私ですが、引揚文学を考えているニコラスさんが、辻原をどのように案内して下さるのか、とても楽しみです。

 

12月2日  討議空間

第一部 香港と韓国で働くフィリピン人家事労働者

報告者 姜喜代

 

家事労働と移民は、女性労働とグローバリゼーションのなかで重要なテーマになっています。その上で、考えるべきことが、まだたくさんあるように思います。あえていえば階層性や搾取といういい方ではとらえきれない問題です。それは家事労働がケア労働であり感情労働であり、また認知労働であるということにかかわります。とりあえず文化といえばいいのかもしれませんが、言語や習慣あるいはこれまで労働においては顧みられなかったことが、移動と共に労働の意味を持つ。そこでは単なる搾取という言葉では言い表すことができないことがおきているはずです。たとえば当たり前のような自分の言葉が労働として了解されるということ。こうした領域にこだわり続けている姜喜代さんの報告です。

 

第二部日系人という問い

―サンフランシスコから考える―

報告者 高橋侑里

 

歴史認識の問題は、教科書記述でも、大きな正義でも、歴史事実の問題でもありません(あえていえばですが)。それは、毎日の仕事の場所や生活の場における他者との関係においてこそ議論されなければならないのです。そしてそれは、研究者においてもそうです。日常の場に対して研究者には啓蒙の位置が与えられているという思い込みは、そろそろやめようではありませんか。サンフランシスコで慰安婦像をめぐる議論に巻き込まれた高橋さん(この巻き込まれる力量はすごい!)。文字通りさまざまな史的背景を持つ人々が、日常空間の中で生きるサンフランシスコから、その場において日系人であるということを考えます。

 

12月9日   討議空間 

第一部 沖縄県金武町の基地と新開地

―女性労働と地域―

報告者 桐山節子

 

金武町における杣山訴訟における女たちの運動は、地域ということを基盤にしているがゆえに、逆に地域にすぐさま還元できない問題を抱え込んだ運動だといえるかもしれません。移住や移動経験、あるいは労働経験が地域に入り込んでいます。まただからこそ、同じ地域に住み同じく基地という存在と密接にかかわる新開地とそこでの女性たちのサービス労働が、重要な課題として浮かび上がるのでしょう。この困難な問題に挑み続ける桐山さんの報告です。

 

第二部 歴史について語らないということ

報告者 古波藏契

 

沖縄を語る時、多くの人々はその歴史に言及します。それが沖縄における言葉の秩序を作り上げているといっても過言ではありません。そして語られれば語るほど、ある意味当然のことですが、歴史的な前提なるものが生み出されていきます。そしてこの前提を問う時、それは反歴史的語りになるのではないでしょうか。またその歴史の言葉を担い続けてきた領域は、他方である意味で学的な権威を帯びるであり、したがって反歴史的語りは同時に反権威的語りになるのかもしれません。そしてそこに始まりがあるとしたら。古波藏さんが提出する根源的問いについて、しっかりと考えたいと思います。

 

12月16日  討議空間 

第一部 社会主義者の言葉と主体の構成について

―遠藤友四郎の三部作を中心にして―

報告者 姜文姫

 

24期にも議論した「社会主義者になった漱石の猫」の遠藤友四郎(無水)です。単なる理論や説明としての社会主義ではありません。言葉において構成される社会主義者という主体とは何かという問題です。またこの問いにおいてこそ、社会主義と無政府主義が同時に議論できるのかもしれません。また文学の持つ力も。文学の持つ可能性を、思いっきり楽しくまたのびのびと引き出してくれる姜文姫さんの報告です。

 

第二部 護照のもつ観念の変化

報告者 篠原由華

 

このところしばしば思うことですが、人文学のあらゆる領域において近代あるいは単位としての国民国家ということが問われることのない規範として前提にされているように思います。それはとても根深いものです。またそうした動かし難く自然化された前提への批判が、しばしば「アジア」(アジア的身体!)や「中国」において提出されてきました。したがってそれは、単なるアジア研究でもなければ中国研究でもありません。その問いを、前提にかかわる問いとして確保しようではありませんか。パスポート。それは入管法と同様に、近代国民国家の領土性にかかわる根本的な制度です。しかしいま、領土性ではなく、境界を越えた捕獲装置としてパスポートも入管も際立ってきています。それは単なるグローバル化の時代の変遷なのでしょうか。そうではなくて、もともと近代なり国民国家なりが、一つの規範でしかなかった証左ではないでしょうか。過去を今に引きつける篠原さんの報告です。

 

1月6日 討議空間

第一部 サークル運動の顛末

―ヂンダレと広場の狭間―

報告者 朴炯振

サークル運動はとてもとらえにくい運動です。なぜなら、そこには何をしていたかということだけではなく、いかに行ってきたかという行為にかかわる問いがあるからです。内容の違いが時には、行為において乗り越えられ、また同じ内容が行為において違いを生み出すのです。このダイナミズムを文書資料からあぶり出すのは大変ですが、そこにこそサークル運動の要点があるように思います。「狭間」。この朴炯振さんが設定した問いは何でしょうか。楽しみです。

 

第二部 プラナカンの歴史が語られる場所

報告者 安里陽子

 

どうしてマイノリティの歴史は、少数者の歴史として語られる傾向にあるのでしょうか。小数者という部分集合の規定を与える平面、すなわち全体集合自身が、実のところ問われているのではないでしょうか。そのマイナーな領域は、実はこの平面を融解させるかもしれないがゆえに、部分集合として、全体集合の平面上から外れないように囲い込まれているのかもしれません。そしてこの全体集合とは多くの場合国家です。したがってこの囲い込まれた部分集合は、国家にとっては国家を再定義し、程よく国家を外に開いていく安全弁として機能するかもしれませんが、そこには不断に国家それ自体を融解させ、別の歴史を登場さえる可能性が秘められているのです。ああ、プラナカン!

1月13日   討議空間

中津周辺のいろいろについて

報告者 小路万紀子

 

夏の文化祭、中津文化祭についての話です。その文化をになった一人である小路さんが考えたことを、みんなで議論したいと思います。そこには、極めて単調なかけ声が広がったこの夏において、とても不穏な声たちが、「いろいろ」と渦巻いていたのかもしれません。「鶴見俊輔を読む」と同様に、夏の思い出とともに、議論ができればと思います。

 

1月20日   討議空間 

「占領」をみる

報告者 番匠健一

 

映画を見て占領を考えます。どうなるかわかりませんが、とりあえず予定しているのは、「8月15夜の茶屋」です。既にみられた人も多いかもしれません。またこの映画を論じた文章も多いです。ただ映画にかかわる議論は、共に視るという経験においてなされるべきだと私は考えています。映画批評ではなく、視ることにおいて何が引き起こされるのか。これが重要なのです。それは一人でDVDを見るのとは違います。視てしまったということが、間違いなく隣の人と共有している経験として刻印され、議論の前提になるという身体感覚が重要なのです。それはそれにはその場に集う必要があります。お集まりくださいませ。

 

1月27日   討議空間(そのあとパーティー) 

第一部 三線の話

報告者 栗山新也

 

三線を眺めながら、さすりながら、弾きながら、聴きながら、あるいは交換しながら、分解しながら、組み立てながら、言葉が次から次へと生まれてきます。三線があるということの世界を言葉として確保し続ける栗山さんの報告です。多分、演奏あり!

 

第二部 ファンレターから見えるもの

―メアリー・ル―・ウィリアムズのファンを事例に―

報告者 山田優理

 

ジャズについてです。またマニアではなくファンです。音に魅せられるということは、どういうことなのでしょうか。あるいは魅せられる音の中で演者は、何者になるのでしょうか。そして魅せられるもの同士は、どのような関係を作るのでしょうか。音楽を聴きながら考えましょう。こっそりとウィスキーを隠し持ってきてはいかがでしょうか。もちろんバーボンです。

 

Ⅶその他

金曜日3限(13時10分より SK203)のゼミの案内です。「地域闘争を考えるー状況を再構成する生と言葉ー」ということでやります。三里塚闘争、水俣闘争を考えます。ドキュメンタリー『三里塚を生きる』もみます。松下竜一『砦に拠る』も読みます。よければぜひご参加下さい。

 

あともう一つ、12月22日(火曜)の15時から、ソウルにある歴史問題研究所の藤井たけしを囲む会を行います。藤井さんが今何を考えているのか、彼の文章と共に議論をします。ご期待ください。

 

さらにあと一つ。火曜会にもいらしていた平野克弥さん(今はUCLAです)が11月の一か月、同志社にいらっしゃいます。楽しみに待っていましょう。何が囲む会を考えます。まだギリギリ鴨川もOKです。