火曜会

火曜会は、言葉が帯びる身体性を押し隠すのではなく、それを多焦点的に押し広げることこそが研究行為ではないか考えています。また研究分野の境界は、分野の前提を再度議論する中で、連結器になるとも考えています。

第27期火曜会 (2016年秋開始)<共に考えるということ(2)>

第27期火曜会

(2016年秋開始)

同志社大学烏丸キャンパス志高館SK201

15時より

 

 

 

共に考えるということ[1]

―火曜会のために―

2016/10/15

冨山一郎

 

 

大切なのは、答えよりも問いであり、その問いをどう表現するかということだった。というのも、最良の場合でも、答えが出るとかならずまた新しい問いを提起せざるをえなくなるからだった。じっくりと期待をねりあげる装置。未来をつくりだす機械。問いと暫定的なものからなるこの世界、つねにあすにもち越される答えの追跡、それは私を陶酔させた。私は未来に生きていた。あすを待ち続けていた。自分の不安感を職業にしていたのである。(F・ジャコブ『内なる肖像』辻由美訳、みすず書房、1989)

 

Ⅰ荒野と孤絶

「荒野の真ん中にたった一人放り出されても、議論をする他者を見出し、場所を作り、研究を進めることのできる力量」。いつのころからか、自分の想像する研究者像を話す必要がある場面では、このように述べることが多くなった。それは、荒野にたった一人という孤絶が、研究の始まりの地点であるということでもある。

この孤絶や荒野は、生物体としての人間が近くにいないということを意味しているのではない。荒野とは、自らも所属しているはずの社会において、その社会においてはどうしても居場所が見つからない自分を凝視するときに浮かび上がる世界の静けさにかかわることであり、孤絶とは、その寂漠たる世界に身動きをせずにたたずんでいる自分を抱きしめるときに帯電する感覚のことである。

そしてこれから火曜会を念頭に置きながら議論していきたいことは、この荒野と孤絶は、間違いなく思考の始まりなのだということである。また先取りしていえば、その思考を担う言葉とは、荒野に放り出されてもなお、生き続ける力にかかわることであり、こうした力において出逢う他者とは、目の前にいる人というよりも、その存在に対する愛を込めた眼力において浮かび上がるまだ見ぬ他者である。居場所の見つからない自分と出逢うこの他者も、どこかで既存の社会から遊離している。

この出逢いに、場所が生まれるのだ。そして私はこの場所を生み出すところに、研究という行為を見ようとしてきた。そしてこの場所を生み出すという研究行為には、現実批判ということと同時に、その批判が他者との関係を新たに作り出す営みであることが、含意されている。そこに共に考えるということを、設定したいと思う。またその営みの始まりとしてあるのは、居場所がなく話す言葉がみつからないという荒野に放り出された孤絶であって、いわゆる研究会を支配する語りや、既存のアカデミアの中で習性として身につく研究者の身振りではない。重要なのは荒野であり、孤絶なのだ。

亡くなる直前に、「絶対生きなければならない、あと十年は生きて、新しい学問を作らなければならない」と記していた竹村和子さんは、2003年のインタビューで次のように述べている。

 

研究とは、「まだ見ぬ地平」を探ることだと思います。「まだ見ぬ地平」とは、研究対象であり、かつ自分自身のことです。人文系はとくに自分自身が重要だと思います。なぜある問題に興味をもつか。それは、それに反響している自分がいるからです。そのときどきに論文として発表するものは、たとえ稚拙なものであろうとも、自分を押し広げるという意味で、大きな可能性を秘めていると思います[2]。

 

何も見えない暗闇に一人たたずんでいる自分は、同時に「まだ見ぬ地平」を予感し身構えている自分でもある。言葉はそこから開始されるのであり、その言葉には、間違いなく孤絶感とともに見えない地平の登場を先取りして感知する身体感覚が帯電している。この帯電状態から始めることこそが、知ということなのだ。竹村さんのいう「新しい学問」も、そこにあると思う。さらにいえば「まだ見ぬ地平」と「自分を押し広げること」は、「生きなければいけない」という竹村さんの生への力動でもあるのだろう。この力動は、たんなる生への執着ではなく、竹村さんのいう「新しい学問」が自分自身を重要な媒介にしているところから生じているように思えるのだ。

これから私は、私たちの火曜会について論じていくつもりだが、先取りしていえば、既存の知の区分や、アカデミアの場で身についてしまった習性ではなく、この帯電状態を始まりとして確保し続けることこそが、火曜会と習性を訓練する研究会との決定的な違いなのである。まただからこそ、まだ習性を身についていない身体性こそが重要なのであり、ここに毎年新しい新参者を迎え入れることが制度としてある火曜会を考える要点がある。これまでしばしば火曜会は流動系であると述べてきたが[3]、その含意は、その場が荒野に対して不断に開かれているということであり、外部にさらされた身体性が制度として絶えず流れ込んでくるというところにある。

 

どう座っていればいいのか、どうたたずんでいればいいのか、どう聞けば聞いたことになるのだろうか。何をしゃべれば議論をすることになるのだろうか。

 

火曜会に初めて参加したものが身に纏う戸惑いとともにあるこうした問いが、まだ見ぬ地平への予感に姿を変えていくことにこそ、火曜会が火曜会であるための要点である。それこそが、帯電状態を始まりとして確保し続けることなのだ。また逆にいえば、既に研究会での様々な習性を身につけてしまった者たちにとって、この荒野にかかわる帯電状態を獲得することは、これまでのやり方が通らず、躓いてしまうことを意味している。そして躓くことが、重要なのだ。

 

火曜会では、これまで蓄えた専門的学知を披露するように発言するときよりも、何をいっていいかわからなくなる時のほうが、結果的により多くのことを知ることができることに気が付いた。

 

これはある火曜会参加者が、述べたことである。この人物は躓くことの重要さを知っている。だがしばしば大学院における研究者養成ということで語られる内容は、その逆であり、研究史や研究分野において定められた既定の知識を身につけ、それを披露することが求められる。そこには新人と熟達者の階層化された関係が生まれるだろう。したがって火曜会においては、意図的にその研究者養成において前提とされている関係を壊していくことが求められるといってもよい。

だが、それは上記のような帯電状態の有無において集団の中に新たな区分けを作ることではない。これから述べていくように、「まだ見ぬ地平」は、誰かの新たな占有地になるのではなく、そこでは集団的な知の姿こそが求められているのである。なぜこうした言葉と知の在り方が求められるのか、またどうすればその要請にこたえることができるのか、以下ゆるゆると議論を進めていきたいと思う。

 

Ⅱ火曜会

火曜会という名称で大学院の演習を始めたのは、13年近く前のことだと記憶している。発言を席取りゲームのように競い合うゼミでの議論の容態を、何とかしようと思ったのが、きっかけだったように記憶している。この席取りゲームとは、研究者養成の習性をどこまで身につけているのかを競うことであり、それはまた研究分野に区分けされた知識量の高低を競い合うことでもあった。この整理された知識量の高低が、そのまま発言の占有率につながっていったのである。

しかしそれは自由なアクターによる正しい意味でのゲームではない。その習性や知識の提示の先には、いつも私が据えられていた。院生たちは私に向けて順番を争っているのだ。その結果ゲームには、「知り合い」だの、「左翼」だのといったコードも持ち込まれていったように思う。「知り合い」であり「左翼」であることが、あたかも発言の有資格者であるかのような雰囲気が生まれたのである。またそこには、明らかにホモソーシャルな絆も絡まっていたように思う。そしてこうした雰囲気は、ゼミの場だけではなく、ゼミの後の懇親会などにおいて発揮されていった。

こうしたことは、私のゼミだけの話だけではなく、まちがいなくごく一般的なアカデミアの風景だった。また京都に火曜会が移動した後に、「知り合い」や「左翼」というコードはより顕著になったように思う。「○○さんの知り合いの××です」。あるいは議論を「知り合い」内部に収めようとする傾向も目に付いた。このことは、京都という場所を批判的に考える上で、とても興味深い問題であるだろう。

いずれにしても、区分化された知識量や学的習性の習熟度、「知り合い」や「左翼」というコードが絡み合う中で、席取りゲームは階層的秩序となり、その秩序がまた身につけるべき習性として定着していった。その結果まだ習性を身につけていない新入院生や「知り合い」というコードを持たない流入者は、ただ沈黙することになる。だがこの沈黙には、まちがいなく荒野があり孤絶が抱え込まれていたのである。

「どう聞けば聞いたことになるのだろうか。何をしゃべれば議論をすることになるのだろうか」。この問いを抱えた者たちは、階層化された階段を昇っていくのではなく、別の言葉を探し求め始める。その時、大学教員も含め、すでに学的評価を獲得していた研究者たちは、薄笑いの表情にいらだちを押し隠しながら、「それは研究ではない」、「それでは一人前の研究者になれない」と断言するのだ。別の道を歩こうとした者たちに対していらだちながら断言する彼ら彼女らの醜い顔を、私は忘れない。そして、「何をしゃべれば議論をすることになるのだろうか」という問いとともに始まった言葉たちが、「まだ見ぬ地平」につながっていることに気がついた時、火曜会という名前が生まれたのである。私はこの「まだ見ぬ地平」に歩きださんとする言葉を確保し、新たな場につなげようとした。それが火曜会である。

ところでこうした大学院教育あるいは研究者養成ということにかかわる内省的なプロセスの他に、火曜会が生まれ継続していった背景として、近年の大学をめぐる状況がある。それはこの10年余りの間に起きた大学の合併、法人化、外部資金獲得をテコとした拠点形成による大学の組織化であり、こうした中で大学あるいは研究をするということの意味を考えてきた。私にとって同志社大学は初めての私立大学だが、2004年の国立大学法人化で明確になった流れは、国立・公立・私立を問わず、また日本の高等教育ということにとどまらない事態である。それは新自由主義だとか人文学の危機といったことよりも私には、言葉において何かをなそうとする審議性が形骸化し、議論の出来ない教員たちが蔓延していく事態でもあった。

こうした状況の中で考えてきたことは、雑誌『インパクション』で私が責任編集をした、「接続せよ!研究機械」(153号 2006年)、「大学は誰のものか」(173号 2010年)二つの特集ともかかわっている。それぞれの特集に所収されている文章を、ぜひ参照してほしい[4]。またこれらの文章を書きながら、自分にとって学生時代や大学院生時代の経験が、いま大学を考える上でとても大きいことにも改めて気づいた。党派性と自治、大学と自主講座という形で提出される<と>という連結部こそが、私が言葉のありかを考える出発点であるように思う。

 

Ⅲ自分を押し広げる

ただここでは、火曜会において実践しようとしてきた、「新たな地平」に向けての集団的な知の姿について、別の角度から考えてみたいと思う。議論の案内人をお願いするのは、中井正一である。1936年に「委員会の論理」を公にし、同年新聞『土曜日』を刊行し、また「土曜日」と記された旗を船尾に立てて仲間とともに琵琶湖を就航し、浜でダンスパーティを開いた中井正一は、翌年の1937年に京都府警により治安維持法で検挙された。その後3年に及ぶ取調べののち、中井は特高の保護観察下に置かれる。

戦時期中井は、このように日常的に予防拘禁の暴力にさらされ続けたのであるが、こうした状況下でも彼の思考は継続した。ただ彼の考えていたことが、どのような集団性や組織性にかかわる問いとして登場するのかということについては、戦後彼が実践した農村文化活動や図書館活動を待たなければならない。また火曜会を考える糸口もこうした活動にあるといってよい。だが中井はかかる戦後の活動については、組織論を展開してはいない。「委員会の論理」を組織論としてどう読むのかということは、彼を読む者が、見出さなければならない問いであろう。

いまここで、中井についての略歴を細かく紹介することはしない。ただ彼が「委員会の論理」においてなさんとしたことが、文字通り議論の場とそこでの言葉の姿にかかわることであり、それがとりもなおさず暴力が社会にせりあがってくる状況に深くかかわっていたということを、まずは確認しておきたいと思う。すなわち、知識人たちが論壇において主張する正しさにおいて社会が構成されることが、決定的に消失してく状況の中で、ただ正しさの拡張を求める声は、いつしかより広範な広がりを持つことが正しさの証だという転倒を帯びだす。こうして言葉は平板な同質性のコールとなり、唱和になるのだ。それが、中井が議論の場を考えようとした時の、言葉の状況なのだ。

「人々は、話合いをしなかった。一般の新聞も今は一方的な説教と、売出的な叫びをあげるばかりで、人々の耳でも口でもない「真空管の言葉」も亦そうである。益々そうである」[5]。1936年、中井がこのように述べる時、この「一方的な説教」と「売出的叫び」が蔓延していく中で、中井はそこに暴力の登場を間違いなく予感している。それはまた、自らの拘留を感知する中井自身の身体感覚でもあっただろう。このような状況の中で帯電する身体感覚とともに言葉の在処を求めたのが、「委員会の論理」だった。

かかる点に注視するなら、乱暴にいえば、「委員会の論理」をとりまいていた状況とは、いわゆるファシズムにかかわることであると同時に、「いいね!」の拡大を求める平板なコールの唱和が蔓延する今の状況でもあると私は考えている[6]。さらにいうと、点数化された業績と引用回数を競い合う、今のアカデミアの状況でもあるだろう。またそのことは、時代的な制約があるにもかかわらず中井の議論が今も尚読み返される理由でもあるだろう。

今一つ中井において確認したいことは、態度とでもいうべき問題である[7]。あるいはそれは、谷川雁が中井を評して「思想の支え方」と述べたこととも関係している。谷川は中井が描き出す世界と中井自身の間に「見えざる媒体」があるという。それは提示された内容にも中井個人にも還元できない何かであり、世界にそくしていえば、中井によって提示される世界像は、この「見えざる媒体」により未決のまま開かれ続けることを意味している。そしてこの予測不可能な展開こそ、人々を引き付けるのだという[8]。この魅力は、中井が提示した思想内容それ自体というよりも、思想の提示の仕方において中井自身が媒体になっているということであり、それを「思想の支え方」と、谷川は述べたのである。

同様に、中井のいわば盟友である久野収は「自己の体系の中心に、疎外された自己を否定的媒介として、新しい目的に向かって進出する社会的人間の実践的世界像をおく」と述べている[9]。それは竹村和子が「まだ見ぬ地平」を探るために「自分を押し広げる」と述べたこととも、通じると思われる。すなわち世界は、世界から疎外された自らが媒体となって、いいかえれば既存の世界においては居場所のない自分が媒体となって初めて、変わるべき世界として、いいかえれば実践的世界として浮かび上がるのである。

そしてこのような態度が、まさしく暴力が社会にせりあがる状況とともにあることを忘れてはならない。すなわち中井にとって予防拘禁にさらされ続けることと、自らを媒体として思考するということは、決して切り離すことのできないのだ。予防拘禁にさらされながら1945年に執筆した文章において、「一つの世界像を構成するにあたって、自分の今の現実行為を、その世界像の構成の中に生の生成行為のまま組み入れうるか否か」と問う中井は、次のように記している。

 

意識的体系の完結性は、今少なくとも自分にとっては、それが矛盾を解決し、世界の隅々まで射影しつくしていることがわかったとしても、自分を支える最後の力となってくれぬことをひそかに愕くのである。そしてさらに深くかえりみれば、この哲学的体系を構成しようとする態度の中に、すでに根本的態度としての安易さがあることに気づかされるのである。客観的一般性の問われている対象の中に、すでに安易なるものがあるのである[10]。

 

自らを媒体とすることとは、その思想なり考えが、「自分を支える最後の力」となりえるかどうかという問題なのだ。中井にとって思想とは、「明日をも知らぬ生死の問題が現前にあらわれている時、容易ならぬ力をもって、解決を促す」ような力なのだ[11]。また、ただ「客観的一般性」をもとめるところには、その力は生まれない。そして私には、この中井のいう「最後の力」は、最初に述べた竹村の、「生きなければいけない」という力動と、通じ合っているように思えるのだ。

 

Ⅳ経験について

このような中井の「委員会の論理」を参照しながら、火曜会の論理を考えていく。最初にとりあげたいのは、経験ということである。考えたいことは、○○の経験といった個々人の中に蓄えられていく経験というでもなければ、言葉にならない領域を含みこんだ記憶や無意識、あるいは身体性といった議論にすぐさま向かうことでもない。先取りしていえば、個人の経験であれ身体性であれ、まずもってこの個という前提が別物に代わる契機として、経験はあるのだ。また逆にいえば経験を個人的なこととして考える瞬間に、この契機を見失うことにもなる。そして中井は、この見失うことが常態になってしまった社会的前提として、近代をみようとしているのだ。

近代は経験を個に囲い込んだ。それはまた、資本主義と個人主義が手を結ぶことでもあった。中井の「委員会の論理」は、かかる個人化された領域から集団性を再度構成するところに設定されているのであり、そこには明らかに資本主義を乗り越える集団性という問いが存在している。この点については後述するが、久野収や野間宏が中井から直接聞いたことによると、ソヴィエト建設や人民委員会という問いが中井の中にあったという[12]。資本主義を乗り越える組織性とは何か。これは端的に言って革命の問題であり、委員会の論理の根底にある問でもあったのだ。そしてその組織性の契機として経験という領域がある。したがって中井において経験は、自然化された超歴史的領域ではなく、近代という「新しい段階」を示すと同時に、近代を批判する契機でもあるのだ。

今一つこの経験を考える際重要なのは、それが文書を読むということにおいて確保されているという点である。中井において文書は、「書かれる論理」と「印刷される論理」の二通りの方向において設定されている。ややわかりにくい表現であるが、「書かれる論理」における文書は、対象に対する命名や意義付けをおこなうバイブルであり、一つの正しい読みを要求する。中井はその読みの広がりを、的確にもヨーロッパ中世の教区的広がりとものべているが、要するに「書かれる論理」における言葉は、バイブルの言葉であり、正しく読まれなければならないのである。そしてそれは、聖書でなくても、いわゆるアカデミアにおいても流通している言葉のことであり、そこでは最終的な正しさに向けて文書の読みは整序され、この正しさにおいて同質な集団を形成するのである。

だが「印刷される論理」は違う。ここでは「すでに一義的な意味志向が許されなくして、活字となって公衆の中に言葉が手渡しされる時、すでに公衆のおのおのの生活経験とおのおのの異なった周囲の情勢にしたがって解釈される可能の自由が与えられるのである」[13]。そこには新しい思考があり、新しい「活字的な思惟形態」が生まれるのだ[14]。経験とは、まさしく言葉を受け入れる者の経験であり、それは新しい思惟形態への契機として存在しているのである。そして中井はこの思惟形態において、新しい人と人との繋がりを構築しようとした。それは経験が契機となって、「自分を押し広げ」、新たに人と出会うことに他ならない。この時ことばは、やはり生きる力となるであろう。

新しい集団は、新しい思惟と言葉の姿を獲得するのだ。そしてこの新しさに、資本主義そして市民社会的な個人主義を乗り越える可能性を探ろうとしたのである。中井にとって「委員会の論理」を公表した1936年は、個人の自由が抑圧されていくファシズムの時代ではない。中井の盟友である戸坂潤が鋭く見抜いていたように、それは自由主義がファシズムに連結していく時代なのであり、引かれるべき対抗戦は、「自由を守れ」にあるのではなく、この連結を担う資本主義に向けられなくてはならなかったのだ。そしてそこに、委員会の論理が立てられていたのである。

中井の1936年10月20日の日付がある文章を、再度引用する。表題は「集団は新たな言葉の姿を求めている」とある。

 

言葉が、「書く言葉」から「印刷する言葉」を発見した時、人々はその持つ効果に驚きはしたが、それを自らのものとしたとは言えない。/その発見は数百万人の人間が、数百万人の人間と、共に話し合い、唄合うことができることの発見であった。/しかし、人々は、話合いをしなかった。一般の新聞も今は一方的な説教と、売出的な叫びをあげるばかりで、人々の耳でも口でもない「真空管の言葉」も亦そうである。益々そうである[15]。

 

ここでいう「書く言葉」、「印刷する言葉」は「書かれる論理」、「印刷される論理」に対応している。またこの文章は、暴力が社会にせりあがってくる状況を示すために、先にも引用したものだ。繰り返すがそれは今の状況でもある。「しかし、人々は、話合いをしなかった」のである。

そして、かかる状況を前提にしたうえで、言葉の姿をめぐる接近戦を浮き上がらす明確なラインを、ここにしっかりと確認しなければならない。すなわち議論をするということは、経験が契機となり新しい集団を構成してくことなのであり、それが「共に話し合い、唄い合う」ということなのだ。中井のいう審議性とはこのことだ。そして共に話し合う契機としての経験には、「印刷する言葉」にかかわる読む経験、あるいは言葉を受け取る経験とでもいうべき論点があるだろう。いわば読むことから審議が始まるのである。対して、「一方的な説教と、売出的な叫び」は、同質な広がりを目指し、また経験はどこまでも個人的経験として、あるいはその総和として処理されるのである。それは「いいね!」の蔓延に端的に表現される。

 

人とつながる必然性はどこにあるのか、なぜつながる必要があるのか。

 

火曜会のメンバーが議論の場をこのように内省するとき、その必然性とは意見の一致や不一致、あるいは知識の伝達といった教区的で同質な広がりや「いいね!」の拡大の事ではない。こうした同質的で領土的な拡大に、この者は人のつながりの必然性を看取できないのだ。対して中井のいう必然性とは、自分を押し広げ、同時にそれが媒介となって新たな世界が登場し、こうした自己と世界が同時に展開する中で、人と初めて出会うことなのだ。今この必然性を、中井のいう「印刷される論理」における読む経験において、確保したいと思う。

ところでこの「書かれる論理」と「印刷される論理」の対比において知の在り方を考えることを、少し拡張しておきたい。すぐさま気づくように、この対比にかかわる中井の考えは、いわゆるポピュラーカルチャーにかかわる議論でもあるのだ。すなわちポピュラーカルチャーにおいては、ジョン・フィスクがいうように、「テキストが読者に対してどのようなかかわりをもちうるか」[16]が要点なのであり、このかかわりにおいて経験という領域が担保されるのである。このかかわりはテキストの解釈といってもいいかもしれないが、その解釈においては一つの正しい読み方を軸にして整序化や中井のいう教区的な広がりが追及されるのではなく、むしろ「人々が意味をめぐって闘うことの出来る場」が構成されることが重要なのだ[17]。かかる点に注目すれば、中井のいう「印刷される論理」からはじまる集団は、ポピュラーカルチャ―をめぐるポピュラリティーでもある。

こうした中井の「委員会の論理」の拡大は、カルチュラル・スタディーズやポピュラーカルチャーをめぐる議論の今日的な意義を示すと同時に、中井のいう「印刷される論理」の領域を、ヴィジュアルなものも含めた領域に広げて考えることを要請するだろう。また読むという動詞は、視る、感じる、受け止めるという動詞と連結していくことになるだろう。

火曜会では、文書を読む経験から始めたいと思う。またそこでの文書というテキストや読むという動詞は、フィスクが念頭においているようなヴィジュアルなものも含めるべきであり、視る、聴く、感じるといった動詞も同時に考えたいと思う。そしていずれにしても重要なのは、「一方的な説教と、売出的な叫び」の広がりではなく、読むという経験が契機となって新しい集団に向かうプロセスとして、議論を確保することなのだ。ここに火曜会を設定したいと思う。

 

Ⅳ模写と技術的時間

まず文書から始めたいと思う。出発点はそれを読むことであり、その読むことにかかわる経験が、議論の契機として確保されなければならない。読むことによる経験が出発点としてまずは設定されなければならないのだ。また、まずは読まれることにより、報告は報告者から離れていき、軸は読む経験に移っていくのであり、この経験が契機となって議論が始まるのだ。そこでは報告は、契機へと変換される。報告が読む経験において複数の契機を抱え込むことが提案化ということであり、ここに議論の始まりがある。

この提案化を明確にするために中井は、確信する、主張する、評価する、問うという動詞を検討し、「すべての主張は一つの問いでないであろうか」と述べる[18]。すなわち、提案とは、よくいわれるような確信された考えが主張されることではなく、また主張が評価を獲得することでもない。そうではなく、確信をもって主張されたことが、肯定も否定もされないまま、評価がペンディングされた「零」[19]においてただ聴かれ、受け止められ、読まれるのだ。ここで、確信は明確に躓かなければならず[20]、またその躓きは、反論されたということでもない。中井のいう審議性とは、よくいわれるディベートなどではまったくないのだ。受動的に聴き、読んだ者たちが、経験という能動性を獲得するとき、主張はペンディングされ、確信は問いへと変わるのである。

この、報告の提案化を遂行することがまずもって重要である。ここで報告者は、読みや聴衆の前で、躓き、「台無し」[21]にならなくてならないのだ。また聴く者、読む者に圧倒的な主導権が与えられなくてはならない。そこでは報告者は、自らの主張を貫徹しようとすることよりも、まずは読む者たちに場を明け渡さなければならない。こうして、「一度成立した自分の確信をながめている自分の立場と、その確信の主張を聴いている他人の立場とは、判断の評価的層としては同質的」[22]になるのだ。

ところでこの提案化を担うのは、中井においては模写[23]とよばれる作業である。模写はコピーではない。それは対象を自分なりに反復してみることであり、それは反復という行為において、自分が媒体となり常に何かが新たに構成されるということだ。あるいは、報告は文書でなされるが、模写はそこに注釈を入れていく作業だといってもいいかもしれない。読むこととは自分なりに文章を反復することであり、他者の文章を読みながら、考えたこと感じたことをそこに書き入れてみることが注釈なのだ。それは、間違いなく読み手の経験の言語化であるだろう。

ところでこの模写の原理は、引用においてもいえることである。人の文章を反復し自分の文章の中に引用として導入する際、そこでは間違いなく他者の言葉の反復において自分自身の読むという経験を言語化しているのだ。したがってある報告に対して別の他者の言葉を注釈として入れていく作業においても、読み手の経験は言語化されていることになる。

模写とは自分自身の発見であり、報告の内部において自分自身を説明するということなのだ。それは最初に述べたような自分を媒体として世界を再設定する実践でもあるだろう。また個人名のついた報告は、この模写の作業において複数化するのであり、そこで報告の作者は、解体され、そして広がっていくことを文字通り実感するだろう。読まれることにより未知の自分に出会うといってもいいかもしれない。私は、それは心地よい経験であると思う。

いわゆるコメントと呼ばれている作業も、主張に主張を対決させることではなく、この模写であるべきだと考える。だが往々にして、コメントは持論の展開となり、議論とは評価を下す作業になる。そこには、まさしく教区的な広がりが前提にされているといえるだろう。しかし目指すべきはそれではない。報告は、報告者も含め、自分を押し広げ、新たな出会いと集団性に向かう契機となる経験として受け止められなければならない。主張は、一つの正しさにおいて序列化されるバイブル的解釈に陥没することなく、新しい集団性の生産に向かわなければならないのだ。そこでは主張は問いになるのだ。

だが人は答えを求めようとするだろう。議論の中で問いは一つの主張に再び向かうかもしれない。経験もまた、個人的な感想として放置されるかもしれない。中井はこの陥没、序列化への回帰を、端的に「歪曲」と述べる[24]。それは元に戻るだけではなく、経験がもつ新たな集団性への潜勢力を領有するがゆえに、より強固な秩序を反復し獲得することになる。議論においてはこの歪曲を不断にけん制し、審議性を維持しながら進まなくてはならない。そしてこの過程を中井は、「技術の問題」として検討している。それは模写と並んで、審議性を確保するための論理である。

この「技術の問題」は、模写によって登場した読み手の経験が、議論という場を構成していくことを意味している。それは意見の一致あるいは不一致ということではない。議論をするという動詞において、複数の経験が出会うことなのだ。議論は、同質的で領土的な結論を導くのではなく、異なっているが、共に存在し続けるということが重要なのだ。そしてこの共に存在していることの基盤として、最初の報告があるのであり、その報告を読むそれぞれの経験が、議論の契機になり続けていることが重要になる。

ところで技術のプロセスは動作において構成される。したがってそれは動詞の連結でもある。動詞はいつも未知なる未来への企てなのであり、この動詞的展開には、いつも未決の未来が担保されていると考えてみよう。そして議論は、読む・書く・話す・聴くといった動詞において構成されるプロセスなのであり、このロセスは計画された道筋ではなく、絶えず新たな展開に向けて開かれ続けている。こうしたプロセスの展開を中井は「技術的時間」とよび、「技術的時間はいずれの瞬間もが出発点」なのだと述べる[25]。そしてだからこそ議論は、最後の結論に要約されるのではないのだ。

議論はプロセスとしてあり、そこでは新たな展開の可能性が絶えず見え隠れするのだ。そしてこの議論のプロセスにおける予期することのできない新たな可能性の登場は、まさしく議論が模写、すなわち読むという経験を契機にしていることによるのであり、それはまた、一人一人が自分自身を押し広げ、「見えざる媒体」となって議論に関与することでもあるだろう。このような模写と技術的時間を念頭に置きながら、火曜会の構成を提案する。

 

Ⅴ火曜会の制度化

(1)ディスカッション・ペーパー

まず模写ということが、しっかりと確保されなければならない。それは読む経験の確保であり、その言語化のプロセスの確保である。この確保のために、ディスカッション・ペーパーという制度を設定したいと思う。以前、あるプロジェクトにおいて議論の場を構成しようとした時、このディスカッション・ペーパーという制度を設定したことがある。2004年に書いたその時の宣言文には、「ディスカッション・ペーパーはあくまでもプロセスの中にとどまり続けるものであって、終着駅に帰着することは永遠にありえないのです」とある[26]。いわばそれは、コメント、あるいは注釈を生み出すためのペーパーであり、それは、様々な場所で読まれ、その読んだ経験を議論に結びつけるためこそある。このペーパーはいつも議論のプロセスにあるのだ。またこのディスカッション・ペーパーは、事前に読むという時間を生み出すことにおいても重要だ。読む経験は時間において獲得されるのであり、これが議論の出発点になるのだ。

研究会においてもペーパーが出される場合がある。しかし多くの場合、議論はペーパーの評価に向かい、往々にしてその評価は、既存の基準に当てはめることになり、議論とはこの当てはめ作業をおこなうこととなる。しかしディスカッション・ペーパーの意義は、この当てはめ作業にあるのではない。文字通り議論のプロセス自体を確保することが要点なのであり、この違いは極めて重要である。またその違いを論理として維持するために、これまで述べてきた中井のいう模写と提案化をそこに重ねて考えたい。

ところでこのディスカッション・ペーパーは、先ほど述べた2004年のあるプロジェクトで導入したものであり、宣言文にもあるように同様の試みは世界中で起きているように思われる。ただ私にとってこの試みは、もう一つの経緯がある。

いまでは一つの学問分野のように語られ、また関連する学会も存在するが、ポピュラーカルチャー研究を担う制度は、これまで従来の研究組織とは異なるネットワーク型の組織形態を形成してきた。日本の文脈でも、大衆文化を扱った「思想の科学研究会」や「現代風俗研究会」などが存在するが、カルチュラル・スタディーズとよばれる研究領域においてもこの特徴は極めて明確に現れている。北米圏の文脈では、1993年ハワイの東西センターで「Internationalizing Cultural Studies」という国際会議が開かれ、その後、各地で同様の会議や研究団体が形成されていくが、アジアにおいてはInter-Asia Cultural Studies Conferenceという形で、台北、東京、ソウル、上海などで会議やコンファレンスが開かれ、その合間には頻繁に研究会が行なわれるようになった。またこのアジアにおける研究活動は、季刊英文雑誌「Inter-Asia Cultural Studies」(Routledge)として刊行され続けている。こうした研究活動には、研究テーマだけではなく、新しい研究集団を自覚的に検討するという目的意識が一貫して存在しており、研究分野や研究方法において定義できない繋がりが意識的に追及されてきた。

またこうした研究集団は、当該社会の社会運動における文化表現の形式とも深く関連している。すなわちカルチュラル・スタディーズとよばれる研究領域の一つの側面として重要な点は、それが社会運動における表現運動と密接に関わっているということである。とりわけ、東アジアにおけるカルチュラル・スタディーズの浸透・拡大は、80年代の民主化をへて90年代に一気に登場した社会運動が国家の境界を超えた文化表現を獲得していくプロセスでもあった。統一の運動方針や既存の政治団体の綱領にかわり、文化表現がある種のゆるやかな連帯をつくりあげていく動きが、そこにはある。

研究分野でも一致できず、また既存の研究という枠においてもまとめることができず、さらに言語においてとりあえずある言語が軸になるとしても、その能力には大きな差があり、さらに議論の出発点には、それぞれの場での経験が重視されるような人々の集まりの中で、いかに議論を成立させるのか。それは何を研究するのかということよりも、研究がいかなる集団性を作り上げるのかという問いであり、私が黎明期の東アジアにおけるカルチュラル・スタディーズに魅かれたのは、まさしくこの問いによる。そしてこうした状況の中で、同様の問題意識を持った友人とともに思いついたのが、ディスカッション・ペーパーなのだ。

その要点は、極めてシンプルだ。すなわち、自分の読むという経験を、議論の出発点にしっかりと確保すること。そしてその確保する作業には、それぞれ時間がかかるのであり、この時間を確保するということが重要なのだ。この読んだ経験を言語化するという時間を生み出すところに、ディスカッション・ペーパーがあるのだ。火曜会でもこれを採用したい。

ちなみにこのディスカッション・ペーパーという制度において、火曜会でこれまで行ってきた精読会と討議空間という区分は限りなく近似することになる。すなわちこれまで精読会において一緒に読んできたテキストや論文が、ディスカッション・ペーパーの位置に置かれることになるのだ。あるいはそこにヴィジュアルな作品も含めて考えるならば、映像を見て議論をするという営みも、併せて考えることができるかもしれない。いずれにしても共通用の要点は、読むあるいは視ることにかかわる自らの経験を押し広げることであり、この作業を議論の出発点としてしっかりと確保することなのだ。

 

(2)議論の時間ということ

議論は、「いずれの瞬間もが出発点」であるという中井のいうような「技術的時間」であり、いつもそこには潜在的な可能性がある。だが中井が「歪曲」といったように、この技術的時間を確保することは、極めて困難である。なぜなら議論においては同時に複数の展開を行うのは不可能であり、議論の展開はある種の代表性を帯びざるを得ないのである。潜在的な可能性は、現勢化というプロセスにおいてこそ議論可能なのであり、そのプロセスは一つの道を構成する。「複数の潜在的可能性がある」というのは解説としては成り立っても、議論のプロセスとしては成り立たないのである。人の思考は言葉においてなされるのであり、言葉は「いやおうなく一本の線となってわたしたちに現れる」のだ[27]。したがって、すなわち読むという経験を契機にし、一人一人が自分自身を押し広げ、「見えざる媒体」となって議論に関与することが議論の始まりとして確保されたとしても、議論はやはり一つの道として代表性を構築し、展開するのだ。

あるいはこういってもよい。模写のところで述べたように、読む経験を言葉にしていくことが、ディスカッション・ペーパーにそれぞれが注釈を入れていく作業であるならば、議論することは、往々にしてその注釈を消し去ることになる。それは中井のいう「歪曲」の問題とも無関係ではない。思考が言葉であるのなら、くりかえすがそれは「いやおうなく一本の線」となって登場する。たとえ詩的言語を用いようと、思考は線形性を帯びるのだ。しかし思考が言葉となり、「一本の線」になるとき、それはすでに注釈ではないだろう。注釈を抱え、複数の契機を確保しているディスカッション・ペーパーが言葉において議論されるとき、たとえ注釈に議論の焦点があてられたとしても、注釈は注釈ではなくなるのだ。

議論のプロセスにおいて、いずれの瞬間も出発点であるという中井のいう「技術的時間」は、いわば進むことと出発点であり続けるということの二重性を、一つ時間としなければならないのだ。これは極めて困難である。この困難さを前にして以下に二つの事を提案する。ひとつは休憩であり今一つは記録ということである。そしてどちらも、時間を遡るということであり、内省的時間といってもいいかもしれない。

休憩とは、途中で振り返り確認するというインターバルをいれることである。そこでは行きつ戻りつ、議論が進むのだ。中井のいう「技術的時間」は、振り返る時間を議論のプロセスに断続的に設定するということにおいて、いわば代替的に確保されることになるのだろう。あるいはそこで、視る、あるいは眺めるという行為が、重要性になるかもしれない。「視覚器官に向けられるものは、多数の同時的記号を含みうる」[28]からだ。視覚的に議論を振り返るのだ。議論をし、立ち止まり、ふりかえり、人々の表情や身振りも含めた議論の光景を思い返し、また議論をするのである。中井のいう「技術的時間」が抱え込んでいる二重性をプロセスとして実行するには、実際のところこのようにジグザグ進む以外にないように思う。

 

(3)議論の記録ということ、あるいは一歩前進、二歩後退

言葉は一本の線である。しかし集団における議論は、表情や身振りも含めた多声的であり、読む経験や潜在的可能性は、そこに表出されているともいえる。だが単声的な展開を余儀なくされる議論のプロセスにおいては、結果的に多声的であることは、放置された発言や身振り、あるいは議論に不意に挿入される叫びのような発言となるのだろう。したがって、多声的な議論の中で浮かび上がることを、線形性を帯びた言葉においてまとめることは、基本的には極めて困難である。またそれは、議論で生じることとは、プロセスに宿るのであり、決して最後の結論にあるのではないということでもあるだろう。

ここに議論の記録が重要性を帯びる理由がある。多声的な展開は、むしろ事後的な記録から引き出されなければならず、そのためには記録が必要なのだ。ではいかに記録するのか。もちろんここにも模写という論点があるが、今重要な点は、いかに模写するのかということと同時に、記録することにより確保されるであろう事後的に議論を振り返る時間という点にある。すなわち、火曜会通信を読むという経験だ。そこでは議論は記録の再読としてあり、再読された議論においては、単線的見えるプロセスが同時に様々な契機を抱え込んでいることが、確認されることになる。

久野収によると、中井が「委員会の論理」にかかわって熱心によんだ本の中に、レーニンの「一歩前進、二歩後退」とういものがあったという[29]。レーニンはそこで、党大会の政治的意味を探るために議事録を研究している。その大会での議論で何が起きたのかということをしめしてくれるのは、「ほかなる党大会の議事録であり、またこの議事録だけである」という。中井の「委員会の論理」においては明示的には展開されていないこの議事録とその研究にあえて言及すれば、議論は記録になることにより、それを読み注釈を入れ、振り返ることが可能になるのであり、読まれることを通じて、記録は新たな議論の出発点となるのだ。

レーニンはこの再読において、「若すぎる真理」が発見されると述べているが、それはただ一つの正しさではなく、出発点としての複数の問いを意味しているのではないだろうか。残された記録は、新たな議論の出発点になるのだ。またその新たな議論の場は、新たに設けられるべきであり、ここにおいて議論は、多焦点化するだろう。

ディスカッション・ペーパーは読まれることにより複数の契機となり、そこに議論が開始され、議論の後に残された記録は、読まれることにより、新たな議論の出発点になるのだ。複数の契機ということは、複数存在するということというよりも、プロセスとして議論が拡張し多焦点化していくということなのだ。多焦点的拡張主義[30]。そのためには記録はやはり必要であり、火曜会通信がこれを担うことになる。

そして結局のところ、すべて時間の問題なのだ。私の、そして我々の。線形性をおびた一人一人の思考を、集団的に遂行するための要点として、議論の時間があるのだ。この議論の時間を停止させることなく続けるところに、火曜会がある。

 

(4)構成

構成の要点は、ディスカッション・ペーパー、読む経験と提案化、休憩、記録の4点です。以下に説明してきますが、これまで考えてきた内容が反映していると同時に、考えることとそれを実行することはやはり違うことで、まあいろいろうまくいかないことが出てくるだろうと思っています。大切なのは、うまくいかないことが出てくるたびに、どのようにすればいいか議論をし、検討することでしょう。

 

①ディスカッション・ペーパーの配布(土曜までに)

まず、報告の前の週の土曜日までに、ディスカッション・ペーパーを火曜会メーリングリストに流してもらいます。それを当日までに読んでくること。ディスカッション・ペーパーはどのような形式でも構いませんが、メモや箇条書き、あるいはいわゆるレジュメではなく、文章にしてください。これが議論の出発点になるのであり、当日の報告では報告者は、自らがそれにコメントを少し付け加えることになります。

また既存の論文や資料のPDFでもOKです。ただディスカッション・ペーパーとしての資料という場合、資料を読むということが軸であり、それをもとに報告するということではありません。もしそうならば報告としてのディスカッション・ペーパーに資料をつけるということになります。また本を読む場合、購入して読んでくるとするか、部分的にPDF化して、ディスカッション・ペーパーとして配布してください。

②報告とコメントの時間(70分)

最初はディスカッション・ペーパーを配布した人、あるいは論文や本、資料を選定した人が、報告者としてコメントを行います。続いて読んできた人がコメントを行います。このコメントは問いであり、注釈です。コメントは、コメントを担う集団を軸に行います。全員になるかもしれませんが、すでに述べたように、流動系を体現するいわゆる新参者を、重視したいと思います。

 

③休憩―提案化(20分)

コメントが終わると、そこからどのような問いを構成するのかを考えるために、休憩をとります。すでに述べましたように、休憩は振り返りの時間です。

 

④議論(60分)―歪曲に抗して

議論を開始します。ここでは中井のいう「歪曲」にならないように進めていきたいと思います。

 

⑤休憩―立ち話・熟考(30分)

休憩を取ります。議論の振り返りを、各自おこないます。

 

⑥議論(60分)

また議論をします。と同時に、議論の記録化を少し念頭においてもいいかもしれません。どのようにこれまでの経緯を記録すればいいのかという問いを、議論に付加するのです。

 

⑦通信の発行(次の火曜までに)

次の火曜会までに議論の記録である「火曜会通信」を発行し、メーリングリストとHPに掲載します。次第に「火曜会通信」編集委員会、あるいは火曜会書記局のようなものができるのかもしれません。

 

 

Ⅵ予定

今期は、一日一つの報告というかたちになります。繰り返しますが、報告者は前の週の土曜日までに、ディスカッション・ペーパーを配布してください。また下記にある表題は仮です。そこに記載されている案内も、私が勝手に書きました。ご容赦ください。ディスカッション・ペーパー配布時に、再度アナウンスをしていただければと思います。

 

10月19日      修士論文報告会のため休みです。

 

10月26日

共に考えるということ

―火曜会のために―

報告者 冨山一郎

 

今期27期のこの案内の文章について議論します。この案内が、ディスカッション・ペーパーになりますので、よろしくお願いします。

 

11月2日   海外出張のため休みです。

 

11月9日

私の沖縄経験

報告者 福本俊夫

 

なぜ沖縄にかかわってきたのかというよりも、かかわってきた経験が自分にとって何か、どのような繋がりとしてあるのか、かかわるといったとき、何にかかわるのか、どこを注視してきたのか。こうしたことを記すことは、経験が長く、また豊かであればあるほど、難しいことです。でも福本さんにはぜひこの難しい作業をやってもらおうと思っています。

 

11月16日

イタリア婦人解放闘争の歴史と女性の社会進出による再生産労働の空白について

―外国人家事労働者導入は婦人解放闘争の挫折と限界か?―

報告者 姜喜代

 

移住家事労働者を追い続けてきた姜喜代さんです。移住家事労働者を受け入れてきたイタリアに焦点を当てながら、女性の解放と移住家事労働者の関係を、解放とは何かという問いの中で考えます。答えを急がず、じっくりと考えましょう。またイタリア語を猛勉中とのこと。楽しみです。

 

11月23日  休日

 

11月30日

ひろく許可証を考える

報告者 篠原由華

 

国民国家を固定した前提として設定すれば、種々の許可証には、許可をする国家というアクターがしっかりと存在し、また許可を受ける人々もその内容も明確になるのかもしれません。しかし篠原さんが一貫してこだわるのは、こうした国民国家や国民という固定した前提が明確でない状況での許可ということです。根源的な議論になる予感が、表題から伝わってきます。

 

12月7日

北の想像力を考える

―開拓・ユートピア―

報告者 番匠健一

 

「北へ帰る旅人一人」。「北帰行」という歌を聴くたびに、帰る故郷でもなく、行く旅先でもないこの「北」に、クラクラする幻惑を感じます。地図上では北海道がたしかに念頭にあるのでしょうが、人はこの北の地に何を見ようとしていたのでしょうか。若いときによく歌った北大寮歌も思い出します。「人の世の、清き国ぞと憧れぬ」。

 

12月14日

阿波根昌鴻の言葉から考える戦争の傷

報告者 岡本直美

 

伊江島は日本軍から米軍まで、戦中戦後を通じて一貫して軍事にさらされてきました。そのような状況の中で語りだされる戦争の傷とは何でしょうか。米兵に立ち向かいつづけた阿波根昌鴻にとって戦争とは何でしょうか。緻密にそして誠実に彼の言葉に向かい合う、岡本さんの報告です。

 

 

 

 

 

12月21日

料理研究家の研究のために

―飯田深雪からたどる―

報告者 西川和樹

 

以前、レシピという文体やレシピを読む経験を提示して、アッといわせた西川さんの報告です。今度は料理研究家に焦点が当たっているようです。しかしいずれにしても、食事そして食べるということに、一貫して焦点が据えられているのでしょう。だからこそ、まるでみんなでディナーを食べているかのような議論の場になるのでしょうね。今期もいただきます!

 

1月11日

サンフランシスコにおける未来への欲望と社会運動

報告者 高橋侑里

 

場にこだわるということは、あらゆるカテゴリーが絶えず生成中であることを認めることなのかもしれません。例えば社会運動といった領域が、議論に都合よく準備されているわけではありません。様々な社会運動がひしめき合うサンフランシスコですが、それらをただピックアップするのではなく、高橋さんはその重なり、さらにはシリコンバレーに集まる人々も含みこんで考えようとしていています。楽しみです。

 

1月18日

鉄屑から見る大阪市大正区

報告者 上地美和

 

大正区に密着して研究を続けてきた上地さんです。そしてそこでの焦点は、大正区という場所であると同時に、「屑」ということにあるように思っています。仕事の中で、あるいは労働の中で余計なものとされている屑。捨てるということ以外扱われることのない屑。ですがその屑から新たな仕事と人々の生の営みが始まるのです。屑をなめんなよ!

 

 

 

 

 

 

 

1月25日

日高六郎におけるアジアとの出会い

―経験を語りなおすということについて―

報告者 鄭信赫

 

東アジアにおいて植民地主義を批判する歴史認識と社会運動の連動を考えている鄭信赫さんの報告です。そこでは、昨日までアジアで大東亜と叫んでいた者が、1945年以降、突然同じ場所を外国と呼び、外国を除外した自分たちを日本国民とみなして歩みだした戦後という時間が、問われるはずでしょう。いわゆる戦後の進歩的知識人とみなされている日高六郎を鄭信赫がどのように扱われるのか、いまからワクワクします。

 

Ⅶその他

(1)火曜会のHPは、http://doshisha-aor.net/place/です。ここに火曜会にかかわる文書が蓄えられています。どうぞご覧ください。火曜会通信もここに掲載されます。これまでの通信も読むことができます。

 

(2)メーリングリストは、柚鎮さんに管理してもらっています。新しい人はご連絡を。

 

(3)すでに述べたように火曜会の多焦点的拡張を考えています。それはこれまで火曜会特別篇や別働火曜会という形で行ってきたことでもあります。今期もぜひ!

 

(4)どこかに出かけてもいいかもしれませんね。

 

 

今期もよろしく!

 

[1]この文章は、2015年8月に火曜会と「スユノモR」との合同「ワークショップ」で報告した「共に考えるということ―動詞的思考、あるいは遅れて参加する知のために―」(http://doshisha-aor.net/place/366/)の続編である。

[2]小森陽一監修『研究する意味』(東京図書、2003年)、158頁。

[3]たとえば、 http://doshisha-aor.net/place/457/を参照。

[4]「接続せよ!研究機械」の趣旨にかかわる文章は、http://doshisha-aor.net/place/167/で、「大学は誰のものか」の文章は、http://doshisha-aor.net/place/454/で、読むことができる。

[5]中井正一『美と集団の論理』久野収編、中央公論社、1962年、207頁。

[6]平井玄は今の状況を「広告的政治」と述べている。平井玄「真に畏怖すべきものー国民運動への異論」『季刊 ピープルズ・プラン』73号、2016年。

[7]冨山一郎「あとがきー歴史における態度の問題―」森宣雄・戸邉秀明・冨山一郎編『あま世への道』法政大学出局(近刊)、参照。

[8]谷川はその魅力を、坑夫たちが花札をやる際の「しゃれた絵」という言葉であらわしている。それは「闘えば九分九厘敗北するにきまっているけれども、こととしだいによっては相手の裏目々々をついて一発轟沈の可能性を秘めている」札の模様のことだ。それはいかなる状況においても、まだ終わっていないと人に思わす魅力のことなのだろう。どんなときでも「しゃれた絵」を眺めながら楽しみたいと思う。谷川雁「士風・商風」『中井正一全集第二巻 付録』美術出版社、1981年。

[9]久野収「解題」『中井正一全集第一巻』美術出版社、1981年、466-7頁。

[10]中井正一「感嘆詞のある思想」『中井正一全集第一巻』149頁。

[11]同。

[12]久野「解題」(前掲)462頁、野間宏「中井正一から受けた批評」『中井正一全集第二巻 付録』(前掲)1頁。

[13]中井正一「委員会の論理」『中井正一全集第1巻』美術出版社、1981年、53頁。

[14]同、54頁。

[15]中井正一『美と集団の論理』久野収編、中央公論社、1962年、207頁。

[16]ジョン・フィンスク「ポピュラーカルチャー」フランク・レントリッキア、トマス・マルラフリン『続・現代批評理論』平凡社、2001年、 頁。

[17]同、 頁。

[18]中井「委員会の論理」79頁。

[19]同、78頁。

[20]躓くことについて、冨山一郎「躓くということー中田英樹『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民』」(『インパクション』191号、2013年)を参照。

[21]ジュディス・バトラーは「自分自身を説明するということ」において、まだ見ぬ他の存在により自分自身が「台無し」になる(become undone)ことを、「呼びとめられ(addressed)、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、さらに動かされ、行為するように促され、私自身をどこか別の場所へと送り届けようとし(address myself elsewhere)、そうして一種の所有としての自己従属的な『私』を明け渡していくチャンス」と述べている。Judith Butler, Giving an Account of Oneself, Fordham University Press, 2005, p136.

[22]中井「委員会の論理」79頁

[23]同、87頁。模写については、中井正一「模写論の美学的関連」(『中井正一全集第1巻』美術出版社、1981年)も参照。

[24]中井「委員会の論理」103頁。

[25]同、88頁。

[26]全文は、火曜会のHPで読める。http://doshisha-aor.net/place/163/をぜひ。

[27]ソシュール『ソシュール講義録注釈』前田英樹訳、法政大学出版局、1991年、53頁。

[28]同。

[29]レーニン「一歩前進、二歩後退」『レーニン全集7』大月書店1964年、209頁。

[30] SPK, SPK: Turn Illness into a Weapon, KRRIM-self-publisher for illness, 1993, p.74-76.